5月11日 金戸 清高 先生
[2026-05-11]
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ヨハネ3:16(聖書協会共同訳)
おはようございます。
とうとう連休も終わってしまいましたね。今日から金曜日まで休みなしです。私もペースを取り戻すのに時間がかかりそうな予感がありまして、とにかく1週間乗り切ろうと思っているところです。
大体私のチャペルメッセージは最近読んだ本や新聞などのニュースから題材を得ることが多いのですが、今日は今年の本屋大賞を受賞した朝井リョウさんの「イン・ザ・メガチャーチ」から、お話をしたいと思って準備してきました。5月6日朝日新聞の広告に次のような言葉が書かれていました。
信じることは救いか、それとも絶望か。
孤独な中年男性、将来に悩む女子大生、推しに夢中な女性会社員、アイドルを巡る「物語」の渦の中で、3人の運命が交錯する……。
皆さんの中には読まれた方いらっしゃいますか? ちょっと分厚めの本なのでかなり読み応えがあったのではないかと推測します。私も1月ほどかかりました。う〜ん…と唸っている内に本屋大賞の報道があって、えっ! と。これが大賞とっていいのだろうかというのが第一印象でした。
実はこの小説、かなりの問題作だと思っていたのです。簡単に言えば、物語という形で物語批判をするという、いわばメタ小説だからなのです。現代人は物語に操られているという警鐘を物語という形で書いている。じゃあ朝井さん、あなたもこの物語で人心を操ろうとしているのですか、ということになるのです。
メガチャーチ(Megachurch)とは、主にアメリカのプロテスタント系で、定期的な週末の礼拝に2,000人以上が集まる巨大な教会のことを言います。カリスマ的牧師による現代的な説教、ライブ音楽、充実した施設が特徴で、宗教離れが進む中でも若者を中心に支持を集め、ファンダム(熱狂的なファンコミュニティ)のような強い結束力を持っているのです。こうしたメガチャーチの手法が、信者の献金集めに役立っています。登場人物の一人はこう言います。「今日本でチャーチマーケティングが一番機能しているのって、多分推し活界隈なのね。」「スパチャ(Super Chat:投げ銭)ならまだしも、ランダム商法とか同じCD大量に買わせるのとかって、廃棄前提のやり方なわけで、普通に環境に悪いしCD複数買いさせてる運営がSDGs系の仕事引き受けてるの、もはや風刺画じゃん。ああいう、推しのためならタイムズスクエアに広告出しますみたいなエネルギーを農家とかNPOとかにも向けられないかなーみたいな。一言で言えば、この時代にどうすれば人を動かすことができるのか」云々。
つまり物語がマーケティングに利用されているのです。みなさんCMを見ても、物語で溢れているでしょう? このサプリを飲んだら元気になった、痩せられたなど…。どこそこ大学のなんとか教授がコメントしている画面上に小さく「個人の感想です」などと書いて批判を避けようとしたり。なんだかこれを買ったらより幸福になれるような幻想を抱かせ、買ってしまったらそうでもなく、ローンに追われてしまったりするのです。
内田樹は、「大きな物語」(進歩、革命、民族の繁栄などの包括的なイデオロギー)が終焉した現代、日本人はひとりひとりが自分にとって都合のよい「主観的真実」という「小さな物語」を選んで、そこに安住してしまっていると指摘します。勧善懲悪の時代劇やドラマ、めでたしめでたしで終わって満足する。あるいは逆境を乗り越えて一発逆転、溜飲を下げるような物語、いわゆるスカッとする、あれですね。この前のパラリンピックなども「感動ポルノ」と批判する向きもあるのです。感動ポルノ(かんどうポルノ、英語: Inspiration porn) とは、主に身体障害者が健常者に同情・感動をもたらすコンテンツとして消費されることを批判的に表した言葉です。特に、「まじめで頑張り屋」など特定のステレオタイプなイメージを押し付けられた障害者や、余命宣告者などの同情を誘いやすい立場の人を用いて視聴者を感動させようとする「お涙頂戴」のコンテンツがこのように呼ばれます。本来シリアスな問題なのにそれをひたすら視聴者の感動を煽る安っぽいドラマに作り替えたりするのです。
私たちの生き方を変えるのは、そうした「小さな物語」や「感動ポルノ」などではなく、もっと本質的で普遍的な問題、たとえば人間とは何者かといった問いかけに対し、自らが考えて行くためのヒントを与えるものなのではないでしょうか。おそらくそうした問いに示唆を与えてくれるのは、哲学や宗教ということになるのでしょう。冒頭でメガチャーチのマーケティングについて離して、みなさん宗教がうさんくさいと思い始めたところかもしれません。むしろ宗教と言わず、聖書の示す世界観、神観について話そうとしていると理解していただいた方がいいかもしれません。「イン・ザ・メガチャーチ」でも、物語に熱中するということは、視野(世界観)を狭め、空虚さを一時的に埋めるものだと指摘しています。そうした物語は、実は「小さな物語」であって、本質的な問いかけにヒントを与えるものではないのです。内田樹のいう「大きな物語」より更に大きな物語、神が人に何をしてきたか、そして何をしようとしているのか。人は神に何をしてきたのか、そうしたことが聖書に書かれてあるのです。私はキリスト教信者になって、今年の7月で丸40年になります。どうしてクリスチャンになったかについてはまた追々離しますが、私の本学でのチャペルメッセージは、神を信じない大部分の出席者に、今話したこと、つまり(大事なことなので繰り返しますが)、神が人に何をしてきたか、またしようとしているか、そして人は神に何をしてきたのか、について訴え続けてきたつもりです。
聖書の登場人物の中で、たとえばモーセやアブラハム、そしてダビデ王でさえ、歴史的に実在したかを証明するのは難しいとされています。それでも、たった一人、イエスという神の子が、この世に人間の姿として産まれ、育ち、人を愛し、神の律法を守り、十字架で死んだということは、まぎれもない真実であり歴史的事実でもあるのです。私はその一点で、キリスト教は信頼するに値する世界観であると自信をもって訴えることができるのです。イエスが実在したということは、聖書以外のいくつかの文献が証明するところでもあります。
今日の聖書はとても有名な箇所で、ルターが’The Shortest Bible’と昔いた宣教師、ハドル先生が仰っていたのをおぼえています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と。詳しい釈義を展開する時間はとてもありません。でも、みなさん折角キリスト教の大学に籍を置いているのですから、ぜひこの聖句を心に留めて学生生活、教員・職員生活を全うしていただきたいと切に願います。