みことば

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6月8日 金戸 清高 先生

チャプレン 和田 憲明

[2026-06-08]

チャペル6月8日

Irresistible Grace

ヨナ1:1〜3a

主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」しかし、ヨナは立ち上がると、主の御顔を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。(ヨナ書1:1〜3a)

 みなさん週末はどのように過ごされましたか? ゆっくり休めましたか? 私が中学生、高校生の時はまだ休みが日曜日だけでしたのでとても貴重なものでした。宿題もたくさん出るのですがそれはおいといて、前日土曜日は必ず夜更かしをしていました。大したものは読んでいませんでしたが横溝正史や五木寛之の長編を一晩で読んでしまって、朝5時ごろ、夜が明けて静かな朝になってから床について、昼まで寝て、という生活でした。買ったばかりのレコードをヘッドホンで聴いたり、友達と麻雀をしたりすることもありました。大学生になったらそこに酒が加わったりする程度で基本同じ様な週末を過ごしていました。

そういうわけで日曜日、貴重だといいながら半日は寝て過ごすわけです。夕方になると翌日からまた学校が始まるという憂鬱な気持ちになるのです。

まあ、みなさんはもっと休日を有意義に過ごしておられるとは思いますが。さすがに私も大学院時代はあちこちで非常勤講師をしながら学校に通わなければならず、また論文も書かねばならなくなって、さすがにそんな生活はできなくなりましたが。

 何をお話するかというと、毎日曜の朝、教会に通うというのは、通常ものすごい負担になるように思われるかもしれません。私も院生になって、そこはキリスト教の大学でしたからクリスチャンの先輩とか、そうでなくても教会に通っている人とか、多くないかもしれないけれど、少なくとも私の選んだゼミの人はかなりの数がいました。誘われたりはしないのですが、なんかすごいなと。

だから仮に私が誰かに「教会に来ませんか?」と誘っても相手はあらゆる理由をつけて断りにかかるのです。みなさんは「キリスト教」の授業で教会の礼拝に出席することが義務づけられていますが、それはある意味敷居を低くしている。とても幸いなことだとは思います。ただ教会の礼拝は宗教行事ですから、科目の単位認定に関わる事項として礼拝出席を求めるというのは、義論はあるべきだとは思いますが。今日お話ししたいことの一つ、「不可抗的恩寵」ということなのです。

 先日妻が、あなたはクリスチャンになるようなタイプではないよね、と言われ、そりゃそうだなと思ったのでした。それが教会に通うようになるのですから面白いです。以前西先生が大学のチャペルで自分はキリスト教を信じていません!と喋ったという話をされていましたが、それがクリスチャンになるのだから人生面白いのです。あの有名な使徒パウロも、あれだけキリスト教を迫害していながら、キリストの弟子になっていくのです。まあ、こちら側の言い方をすれば、神様は不思議なことをされる、不思議な人使いをされるというわけです。

 教会に通い始めた頃、私の教会の説教はカルヴィンの系列ですので、基本的に聖書の連続講解です。たとえばヨハネ福音書でしたら1章から始めて21章まで、大体5年くらいかけてじっくり読み込んでいくのです。初めて教会の礼拝に出席したのがもう博士課程に在籍していましたのでテクストを読み込むという作業は自分の専門性からも親和力があったのですが、毎日曜日片道40分くらいかけて宝塚から神戸まで、ずっと通い続けました。そうしている内に牧師に呼ばれ、ある夜教会に行ったら1冊のカテキズム書(信仰の入門書です)を与えられ、教理を説明し始めたのです。それはまあ、良かったのですが、「次のクリスマスあたりに、洗礼式を考えていますが」と言われて、「えーっ!」そんなつもりは毛頭なかったのですぐにお断りしたのだけれど、その時の牧師の一言が生涯忘れられない瞬間としていつまでも記憶されています。

「でもね、カナトさん(かねとですが)。神様から逃げることはできませんよ。ヨナの話は知っているでしょ?」

これを聞いて私は観念しました。自分はもう神から逃れることはできないと。

 ヨナとは旧約聖書の預言者のひとりです。預言者の仕事は神からの命令を受けて民衆に語りかけることです。ヨナに下った命令は、ニネベ(メソポタミアの北の方、アッシリアの都市で今のイラク内)に行って、お前たちは神に背く生活をしているから滅びると宣告しろと。それをいやがって全く別方向のタルソス行きの舟に乗った。ところがその舟は遭難しかかり、ヨナは海に突き落とされる。ところがそのヨナを大きな魚が飲み込んで海底で3日過ごした。その後魚が陸地にヨナを吐き出したところ、もう一度主からの命令が下る。今度は命令どおりにニネベに向かって神の言葉を伝える、という話です。聖書では有名な話でみなさんもご存じの方が多いと思います。

自分はもう神から逃げることはできない。とうとう神様にしっぽをつかまれたと観念したのです。もう、「命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追」っかけてくるのです(詩編23:6)。それでも洗礼を受けるまではいかなかったが、1986年7月27日、神戸の教会で洗礼を受けた。とても暑い日で途中オルガンの音ができなくなった。みんな無伴奏(アカペラ)で大声で歌ってくれました。その時の歌詞「悪魔よ、退け。かかわりなければ」が鬼気迫る圧をもって会堂を響かせていました。

 先ほどみなさんが教会の敷居を低くされているのは幸いだと申しました。単に幸せとか幸福とかというよりも、僥倖、めったにない巡り合わせだという意味で私は申しております。ひょっとして強いられた恩寵、ありがた迷惑と思うかもしれません。遠藤周作が12歳の時、母親と一緒に無理矢理洗礼を受けさせられて以来、ずっと自分はこの外来の宗教をどう受け容れるかを考えてきたと語っていました。私の子どもたちも4人みんな幼児洗礼を受けていますが、内心は宗教二世としての葛藤がそれぞれあるのだと思います。それでも彼らにとっては一度捕まえたら二度と話さない神の愛で生涯を保障されていると考えると、やはりこれは幸いなことなのではないかと、親としては思っています。みなさんはどう考えるでしょうか。ヨナのように逃げてみても、まあ、いいではないでしょうか。

 今日は私が教会に通い始めてからのことについて話しましたが、またいずれ、なぜ教会に通うようになったかについてお話ししましょう。「私を試してみよ」(マラキ3:10)と神は言います。試しに次の日曜日、教会に行ってみてはいかがでしょうか。

関連聖句:

誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。(ローマ8:35)

私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(38〜39)

(Five Points of Calvinism)TULIP:全的堕落(Total deprabity)、無条件的選び(Unconditional election)、

限定的贖罪(Limited atonement)、不可抗的恩寵(Irresistible grace)、信徒の信仰の保持(Persev