7月20日 金戸 清高先生
[2026-07-20]
イザヤ書/ 01章 18節
主は言われる。/さあ、論じ合おう。/あなたがたの罪がたとえ緋のようでも/雪のように白くなる。/たとえ紅のように赤くても/羊毛のように白くなる。
現代日本人の神観(主に文学の視点から)
先週の月曜日、内村理事長が最近話題の本として村上春樹の「夏帆」を取り上げられましたが、私はフェイスブックでレビューを出してます。地球マークですから検索できると思いますので興味ある人は見て下さい。
5月に「物語には気をつけよう」というお話をしました。その中で今巷(ちまた)に溢れている感動ポルノや小さな物語に惑わされるのではなく、大きな物語つまり神が人に何をしてきたか、また人は神に対しどのような行為を働いたのかという物語つまり聖書に記された神による人間の救済プロジェクトについてぜひ知っていただきたいというようなことをお話ししたのです。ちょっと難しかったかもしれませんが、原稿は大学のHPに掲載されていますのでぜひご覧下さい。
さて今日は宗教と現代人のメンタリティについて、近現代の日本文学から見ていきたいと思いました。今回も資料つきですがみなさんの理解の助けになればと願っています。
朝井リョウ
「神がいないこの国で人を操るには、〝物語〟を使うのが一番いいんですよ」(「イン・ザ・メガチャーチ」2025)
「物語には気をつけよ」と話してきています。でもそれなら、私が5月に話した、聖書の記述内容も所詮は物語ではないか。そんな証明もされない昔の物語をなぜ宗教は信じさせようとしているのか、そのように思われるでしょう。何でもいいからただ信じればいいのだ、という論法は現代人にはつうようしないと思うのです。でも、近代知識人といわれる人は、認識の究極に神に到達する、そんなことが起きているのです。たとえば哲学者の西田幾多郎です。彼は自己の生き方に誠実であれば人は必ず宗教の問題に行き着くのだというのです。信仰とは無知蒙昧な人(今時そんな人はいないのでしょうが)だけのものでは決してないとも言います。つまり大学人や大学生であるみなさんも究極の認識は宗教に行き着く筈なのです。
次に森鴎外ですが、ドイツに留学し、また生まれ故郷の津和野で浦上四番崩れのキリシタン弾圧を6歳で目撃していながら、鴎外はキリスト教についてほとんど語っていませんが、以下の「山椒大夫」の一節に、安寿の傷を癒やした仏像の額の十文字というのは暗示的です。鴎外もキリスト教については色々考えていたのでしょう。
次は村上春樹です。「冷たくても、冷たくなくても、神はそこにいる」。殺し屋が今殺そうとしている牛河くんに対してかける言葉です。これから命を奪われる人間に、つまり確実に助からない人間に対し、強引にこのような言葉を反復させるのです。神を意識して死なせるのが殺し屋として精一杯の手向けであるかのように、です。
その次は夏目漱石です。神という言葉が嫌いだったのに、神という言葉を思い出してしまう。そして神の視点からみれば自分も、自分にたかりに来ている強欲な養父も、同じなんだという思いにいたるのです。
さて近代の知識人にとって、神とはどのような存在だったのか。太宰治はマタイ福音書を読み終わるのに3年かかったといわれますし、イスカリオテのユダをモチーフに小説「駆込み訴え」を書いてもいます。その彼は、神の愛は信じられず、罰だけを信じているといいます。漱石と同じ、全知全能の神がいてその神にとっては自分はとるに足らないどころか、全くの罪人である、自分は神の前に出たら、きっと滅ぼされるだろう、そのように思わざるをえないのです。
それは芥川龍之介の神観とも共通するものがあります。彼の遺作、つまり自殺する直前まで書いていたのは「西方の人」で、イエス・キリストについて書き綴っていたのです。その彼は別の小説で以下のように書いています。彼も神の前では罰せられる自分しか信じられなかったのでしょう。
みなさんも、親とか怖い先生とかの前で、お目玉をくらう直前の心境といえば想像がつくでしょうが、親も先生も、通常なら、あなたの命までもとったりはしません。では神はどうなのかということになります。
芥川は「神よ、我を罰し給へ。怒り給ふこと勿れ。恐らくは我滅びん」。こう告白せざるをえなかったのです。実はダビデ王の詩編には、以下のような記述があります。これは芥川や太宰の神観とは対極にあるものといえます。主よ、怒りに燃えて私を責めず/憤りに任せて懲らしめないでください。(詩編6:2)
キリスト教について学んで来た皆さんなら、ダビデ王がどんな悪いことをしたか、ご存じでしょう。部下の妻を奪い、懐妊させ、部下を意図的に戦死させるのです。当然神の怒りを受けなければなりません。でも、ダビデは神に赦しを乞い、許されるのです。
神の前に出るのは確かに怖いです。「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」(ヘブライ人への手紙10:31)とある通りです。私だって恐ろしい。神の前では自分の心のどんな醜い部分も見透かされてしまうからです。ちょっとたとえがわるいですが閻魔大王に睨まれたような感じでしょうか。
でも、今日の聖書です。
主は言われる。/さあ、論じ合おう。/あなたがたの罪がたとえ緋のようでも/雪のように白くなる。/たとえ紅のように赤くても/羊毛のように白くなる。
神みずから対等に、「論じ合おう」と持ちかけるのです。自分なんか、救われる余地のない人間だ、神の前には消し飛んでしまうようなちっぽけな存在だと、もし神の前にでたら、きっとそういうに違いない現代人に対し、「論じ合おう」と。神に対し、どんな疑義を申し立ててもかまわない。あなたがどんな悪人でも、雪のように白くさせてやる、そのように神は語りかけるのです。どうですか? 神という存在が身近に感じられませんか?
もちろん神がいるかいないかはわからない。証明できないのです。いると思うというのはいないと思うのと等価で、神がいると思うというのは信仰のレベルなのだと言われるかもしれない。けれども西田の言うように究極の認識の後に神にいたることもある。神がいると信じている人と、いないと信じている人、世の中にはこの2種類の人間に分かれるのかもしれない。
最後はパスカルの「賭け」の大まかな説明です。
もし、賭けをして、負けても何の損もなく、勝ったらものすごい見返りがある、そのような賭けがあるとしたら、自分は神が存在する方に賭ける。(パスカル「パンセ」)
いるかいないかわからないけれど、いる方に賭けた方がずっと幸せになるなら、神がいる方に賭けてみるのも手なんじゃないでしょうか。
ダビデのバテシバ(バト・シェバ)事件:ダビデ王は、部下ウリヤの妻バテシバと関係を持ち、彼女が妊娠すると、その事実を隠すためにウリヤを戦場で死なせた。しかし預言者ナタンに罪を指摘され、ダビデは深く悔い改めた。バテシバとの子は7日目に死ぬがその後生まれたソロモンがダビデの後継者として王になりユダヤの繁栄に貢献した。(サムエル記下11〜12章他)
浦上四番崩れ:明治初期(1868~1873年)、長崎の浦上村のキリシタン約3,400人が捕らえられ、全国各地へ流罪にされた日本最大級のキリスト教弾圧事件。信者は津和野藩に送られ過酷な拷問と処刑が行われた。観光地として有名だがぜひ行ったら乙女峠のカトリック教会を訪ねてほしい。