みことば

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2023年1月23日礼拝

チャプレン 崔 大凡

[2023-01-23]

マタイ2:16

さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、激しく怒った。そして、人を送り、博士たちから確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した。(聖書協会共同訳)                                               
教授 金戸 清高

さて今年度のチャペル礼拝もそろそろ最終日が近づいています。あと1週間です。4年生はもう6回しかチャペルの機会がありません。在学生も、チャペルはいつでも出席できるなんて思っていたらすぐに卒業してしまいますからこのチャンスを逃さないでいただきたい。ですから今日は、何を話そうか色々考えましたが、特にみなさんに心に留めておいていただきたい聖書の箇所を選びました。

今日の箇所はかなり凄惨な場面です。聖書の中にはとても残酷な話が書かれています。飢饉のため親が自分の子を食べる話さえあります。(列王記下6:28)そんな話に、勝るとも劣らない箇所ではないでしょうか。ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子が皆殺しにされるというのです。これは何年か前に紹介したエピソードですが、あるカトリックの女子大出身の院生が後輩にいまして、彼女の話によると、この場面を紹介する映画を見たのでしょうか、イエス・キリストはこんな犠牲を払ってまでこの世に来なければならなかったのか、問い詰められたシスターが返答に窮していたというのです。

これを神の視点からみると、神は様々な人間のよからぬ思惑を超えて、イエスをこの世に降しているといえ

ます。たとえばこの箇所でいうと、時の権力者であるヘロデが、イエスの誕生の預言に自分の身が危うくなると感じ、それをはばもうというような思惑です。イエスはこのような大虐殺が起きる前に、エジプトに逃れるのです。まるで旧約に書かれたモーセの誕生をも思わせるところです。(本当ならファラオによって殺される筈のユダヤ人の指導者の男の子が、防水加工したパピルスの篭に入れて流されます。それを取り上げたのがファラオの娘だったというのですから、モーセはある意味一番安全な場所で育つことができたのです。これも奇妙な偶然というより、神のしわざというべき奇蹟です。)

ただ、これを人間の立場で見ればそれは悲惨な場面です。救い主としてこの世に降る際に神が払われた代償、それは、これほどの乳幼児大虐殺だった。そう考えるとそのイエスによってのみ、私たちは神と和解できるというのです。つまり私たちが今こうして生きているのは、既に多くの犠牲の上に成り立っているということなのです。

先日関西学院の桜井智恵子さんの講演を聴く機会がありました。私はそれまでその人のことをよく知らなかったのですが、とても興味深いお話でした。好感が持てた理由のひとつは、その内容が少し解りにくかったことです。私は日頃わかりやすい話は疑ってかかることにしています。よく講演の感想として「先生のお話はわかりやすかったです」という人がいますが、それは褒め言葉ではないのです。世の中の様々な課題は錯綜して解りにくいのが本当だと思うのです。で、その話の内容についてここでお話ししていると本筋から外れてしまいますのでそれは省略しますが、1冊著書を買いまして今読んでいる最中なのですが、「教育は社会をどう変えたのか—個人化をもたらすリベラリズムの暴力—」という本です。講演の内容はかなり過激なものでしたがこの本も大きな問題点を投げかけています。教職につこうと勉強している学生は、今学校で学んでいることを俯瞰するためにも読んでみられたらいいと思います。その中に次のような箇所があるのです。

たとえば中産階級の自己中心主義だ。今ある自分の暮らしや存在は自分だけで獲得したもので、現実の社会とはかかわりないという信念だ。それは「あなたがもっと安くもっと便利に食べることができるために」、「誰かが生活できないほどの低賃金で働いている」という構造が見えていないことを示しているとジョック・ヤングは指摘する。100円均一の市場が成立しているのは、徹底的に安価な人件費がそこにあり、その人件費に甘んじざるをえない誰かがいるということだ。でも、私たちは百均ショップでその誰かに想いを馳せることはしない。さらに、人件費が安く買いたたかれるということは、実は構造的に自分の人件費につながっているにもかかわらず、私たちにはその現実が見えていない。

同時に読んでいたのがキム・ジヘさんの「差別はたいてい悪意のない人がする」という本で、内容的にはこの箇所と通底するのが奇妙な偶然を感じました。

私は関西人なので、人より安く買うことができたらすごく嬉しいです。「お前なんぼで買うた? わしは何円ねぎったったで!」というのが自慢話です。ただ、関西の商人は絶対損をしない商売をしますので、「もう、かないまへんな」などと言いながらしっかり自分の利益は確保しているので今お話ししているような心配はあまりしなくても良いのですが。

ある日本の大企業は多くの公害物質を出す工場を、日本では許可が出ないので途上国に移転して、国内ではさもクリーンな営業をしているようにみせかけているという具体的な証言も先ほどの桜井さんは指摘しています。

もう、おわかりでしょう。私たちの今の快適な生活は、(もちろんそうでない生活をしている人が沢山いることも認識していますが)多くの犠牲が払われていて、そのことを私たちは日頃ほとんど意識していないと

いうことです。

ことほどかように私たちは自身の存在に払われる代償の大きさに気づかないのです。自己中心主義的な私たちの生活習慣を少しでも有意義なものとするには、たとえばフェアトレードとか、フードロス解消のための心がけなど、そうした日常から改善することはできるでしょう。それでも完全には償いきれないでしょうが。

でもそれ以上に、神との関係を修復するためには何が必要だったか、イエスが私たちのために十字架で死ぬこと、私たちの罪の罰を私たちの代わりに神の子が受けるという方法でしかできないものだったのです。

今年度最後の私の話の締めくくりとして、「両手いっぱいの愛」という子ども讃美歌の歌詞を紹介します。

ある日イエス様に聞いてみたんだ/どれくらい僕を 愛してるの?/これくらいかな? これくらいかな?/イエス様は黙って微笑んでる

もいちど イエス様に聞いてみたんだ/どれくらい僕を愛しているの?/これくらいかな? これくらいかな?/イエス様は優しく微笑んでる

ある日イエス様は答えてくれた/静かに両手を広げて/その手のひらに くぎを打たれて/十字架にかかってくださった/それは僕の罪のため/ごめんね ありがとう イエス様