2023年1月25日礼拝
[2023-01-25]
チャプレン 崔 大凡
「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」(マタイによる福音書5章7節)
今季の中で一番寒い日を迎えました。昨日から日本全土において寒波と雪に対する警戒と騒ぎを私たちは繰り返し聞いて、今日を迎えました。間違いなく寒い朝です。でも心配したような支障は、私たちの地域を見る限りでは、ないように思います。皆さんの生活はどうでしょうか。
今日はこういう事情で遠隔授業日となった皆さんの生活、変わらない神様の守りと導きの中で進められる一日となることを祈り願います。
私は、社会に対してそこまで深い興味と関心もっている人とは自分では思いません。また、社会のために何か良い活動や行いをしているような人でもないです。そのような私でも、日本においてかなり寒い日を迎え状況の中で思い起こすことがあります。
皆さん、私たちの生活の中で寒いときは、生きていくために、それぞれの家庭や居場所を暖める必要があります。暖めるためには燃料や資源が必要です。つまりお金が必要だと言えましょう。しかし、生きるための当然な対応に余力がない人々、意外と私たちの地域や社会の身近なところにいるはずだと私は思います。
ある記事では、今の日本の社会の中の子ども6人の1人は貧困家庭で育っているという報告が書いてありました(私たちの生活の場ではなかなか見えてこない現実ですが)。災害や寒さあるいは社会の大きな変化が与えられるとき、だいたい私たちの社会の中で一番弱い層の人々が、もっとも被害に当たるのが私たちの世界の現実です。
このような寒さの中で、どこかで凍えているという人々か多分いると思います。だからといって私たちが今すぐその人々を見つけて、助けることはなかなかできないことかもしれないけれど、私たちはこういう社会と世界の現実を知って、気づいている人でありたいと願います。
さらに世界レベルで言うならば、戦争が行われているウクライナではこの寒い冬(間違いなく日本以上の寒さ)をどう乗り越えるべきか本当に悩みどころだと思います。一部の社会団体ではウクライナに使い捨てのカイロを送ろうという呼びかけがありました。それを再利用することで寒さの中のウクライナの人々に小さな力になるからです。
私たちは世界のどこかで戦争が起きたことによって、原油価格や様々な資源の値段の上がる影響は受けながら、戦争の影響を感じます。でもその中に生きる人々が凍える、苦しむ、助けを願っていることにはなかなか気づきにくい私たちの世界かもしれません。
今日の聖書の言葉が示しているように、私たちはこの世界を共に生きている誰かに対して憐れみの心を持つことができる私たちでありたい。なぜならば、学生の皆さんがこれから出ていく世界と社会において、皆さんが共に生きる人々とちゃんと繋がって生きる働き人となって欲しいからです。自分がしたいことだけをして社会と世界で生きていけるとは思わないからです。
または、私たちがこういう思いをして抱いていることによって、私たちが助ける機会が与えられたときに、是非ある人を助けることができる人になるためにも、憐れみの心、祈りの心を持っている人になって欲しいと思います。旧約聖書の箴言にはこういう言葉が書かれていました。
「施すべき相手に善行を拒むな。あなたの手にその力があるなら。」(箴言3章27節)
最後に、神様によって「祝福された人」としてこの世を生きて欲しいからです。今日の山上の説教の一部である「憐れみ深い人々は幸いである」という言葉は、当時イエスによって選ばれた人々、この言葉を聞いていたのためだけの言葉ではなく、この世を生きるすべての人々のための言葉だと私は思います。憐れみを持つことができる人こそ、憐れまれることができるという普遍的な真実も含まれているのではないかと思います。憐れむ人、憐れまれる人が共に生きていくこの世界こそ神様から祝福された世界だと信じるからです。
今日の皆さんの学び生活が、将来のこのことのために、誰かを憐れみ、誰かと共に生きることにつながる一日であることを信じてお祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。 今季一番寒い日を迎えた私たちのそれぞれの生活を守り導いてください。それぞれの場でのオンラインを活用した学びではありますが、今日1日のそれぞれの学びが有意義な学びとなりますように。私たちの大学と繋がる一人一人を今日も養い、お守り導いてください。そしてこの寒さの中で私たちの住む地域や社会のどこかで苦しんでいる人々がいると思いますから、そういう人々には神様のふさわしい助けが届けられる一日となりますように。私たちが今日すぐ助けを行うことはできないにしても、憐れみの心を持って、この寒さを共に生きる私たちでありたいと願います。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。