みことば

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4月11日の礼拝 崔チャプレン

チャプレン 崔 大凡

[2023-04-13]

411日 詩編119105

 

 「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

 

 皆さんおはようございます。411日を迎えたこのチャペル礼拝の時間、今日も礼拝に来てくださってありがとうございます。授業が始まって二日目の日を迎えています。こうして一日目、二日目…と数えるのは、 多分3日くらいが限界ですかね。これから日が過ぎていくことに連れ自然にしなくなることと思います。日を重ねることによって、私たちの新しい生活へのますますの親しみ、良い意味でも悪い意味でも慣れ、そしてその中から実際の私たちの生活から与えられる成長が私たちの身についていくことと思います。

今日も昨日に引き続き詩編の言葉から私たちの礼拝メッセージを聞こうとしています。

 

今日はこのように歌われている詩編の言葉でありました。「あなたの御言葉は、わたしの
道の光/わたしの歩みを照らす灯火。」

道を歩くにおいては光や灯が必要な場合があります。特に夜がそうです。今私たちの生活は当たり前のように与えられている光があるから、その必要性をあまり感じないかもしれませんが、昔は灯火(油で火が灯されている小さな光)を持つ必要があったでしょう。

 

この昔の歌は(詩編は昔の歌です)もともとヘブライ語で書かれていていた言葉です。今日は少し文法的なことに触れる読み方になりますが、ここで「わたしの歩み」(足)の元々のヘブライ語は「レゲル」いった単語だそうです。そしてこの「レゲル」は単数形です。だから「一足」という言葉なんですね。私たちの日本語としては「歩み」と訳しているので、それが複数形なのか単数形なのか分かる形ではないけれども、元々書かれていたヘブライ語でここに書かれているのは「一足を照らす灯火」ということになります。

これが私たちに示唆する意味もあるのではないかと思って触れました。皆さん、私たちに「光」が与えられているというたとえはとても良いことと思います。しかしその「光」が与えられているからと言って、私たちの歩みが最初から最後まで、一気に全部見えるような、そういう光?どちらからと言えば、この詩編で歌われている「光」は とりあえず「一足」、とりあえず「足元」を照らす「光」です。この歌が歌っている神様からの御言葉と助けとはどういうものなのか、それが皆さんに伝わればと思います。

皆さん、新しい生活が始まりました。皆さんがこの九州ルーテル学院大学に入りました。 じゃ、入ったから、皆さんこれからの学び成長はもう終わっている(決まっている)のですか?それらは一気に与えられるものでしょうか?合格したのだから、その最初から最後の歩みまでがもう全て見える形でしょうか?そうではないですね…。もしもそう考える私たちがいるならば、それはこれからの私たちの失敗と躓きに繋がるかもしれません。私たちに与えられているのは新しい時間とチャンスでやって、これから私たちはそれを用いて「一足一足」、「一歩一歩」を歩むから、私たちにとっての大切なチャンスと賜物になるわけです。

今日の詩編の歌も、「神様の御言葉は私たちを導く光のようだ」、「私たちを照らす助け」のようだとそう歌っている中で、それが与えられてるからもう全生涯が一気に照らされたかのような…最初から最後までがもう決まったかのような…そういうものとして歌っているのではなく、「一日一日」、「一歩一歩」を励ますような、そのときそのときにおいて必要なものを与えてくださる神様の導きのような「灯火」として。まず足元の一足を照らす灯火として歌われているのではないかと思います。

皆さん、この詩編の言葉が伝えるメッセージが伝わって欲しいと願います。私たちには大切な11日が与えられていて、今は始まったばかり(まだ二日目三日目と数えられる)形のとして与えられていますが、これが重なることによって、これからも11日を大切に歩むそのことによって、皆さんのこの学校での歩みがますます良いものになっていくことが継続できるように。その一歩一歩を大切にする心を持って導きに従いたいと思います。

目には見えないものですが、神様は私たちに11日必要な導きを与えてくださると信じれば、それが私たちの歩みの本当の光になることを信じます。お祈りいたします。