みことば

一覧へ戻る

4月17日の礼拝 金戸清高先生

チャプレン 崔 大凡

[2023-04-18]

チャペルスピーチ2023年4月17日(月) 金戸清高先生

聖書:ヨハネによる福音書21章1、7節
「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をもとって湖に飛び込んだ。」

今から10日ほど前の4月9日、私たちは教会でイースターをお祝いしました。私は妻と次男3人で私の出身教会である神戸の教会の礼拝に出席できましたが、イースターとは今から2000年近く前のこの日、イエス・キリストが十字架の上で死んだ3日後、復活したことを記念する日です。

その日教会に行くとみんな、イースターエッグがもらえます。重い墓石を打ち壊して墓からイエスが蘇ったことを、この殻からやがて生命が誕生する卵に喩えて、昔からイースターエッグを配ってお祝いするのです。幼稚園や保育園では「卵さがし」をしたりします。

死んだ人間が復活する、というのは私たちにはとてもわかりにくい現象です。クリスチャンである私も、イエスの復活をどこまで理解しているか、よくわかりません。ただ、少なくともこのことだけは言えると思います。つまり、私たちの命が、いつまで続くかわからないしかも確実に終わる時がくるこの命が、それが終わりでないとしたら、私たちにこの上ない慰めと希望をもたらすだろうということです。

愛するものを喪った悲しみは何ものにも代えられないものです。たとえば肉親とかペットとか、経験のある方はよくわかるでしょう。自分の体の一部がもぎとられたような、悲しく、つらい体験で、とても自分は立ち直れないだろうと、そのときは思います。それがやがて、傷口に薄い皮ができ、それが次第に厚いかさぶたとなるように、私たちは時の流れに癒されて行きます。ただそれは完全に癒されたわけではなく、ふとした瞬間につらい思い出として記憶が呼び覚まされたりするものです。

私の専門は文学ですので、今日はいくつかの文学作品から、死と復活について考えてみたいと思います。

いわゆるクリスチャン・ライターと呼ばれる作家にとっても、「復活」は大きな課題なのでしょう。たとえば椎名麟三という人は、イエスの復活は一種のユーモアだと書いています。今日読んだ聖書の箇所では、あわてたペトロが服を着て湖に飛び込んでしまうというくだりなど、ちょっと笑えてしまいますが、それ以外にも、復活したイエスに会った弟子たちは、最初幽霊か何かだと思ってパニクってしまうところが書かれています。イエスはどうされたか、自分が幽霊ではないことを証明するために、わざわざ自分のわき腹を触らせたり、あるいは目の前で魚を食って見せたり、ある意味で相当苦労されている、私たちはそれを読み、たとえば死という人生の局面に瀕してなおかつ笑いと余裕をもたらす、そのようなユーモアがこの「復活」という事件にあるのだと言うのです。

また、遠藤周作は晩年の小説「深い河」(映画にもなりましたので見た方もいらっしゃるかもしれません)で、「復活」を「転生」という東洋的な死生観で説明しようと試みました。

癌で妻を亡くした初老の男性がいました。葬儀のあわただしさも過ぎ、ひとりぼっちになってしまった広い部屋で、ぽっかり空いた心の空虚さの中で、遺品等を整理しながら生前妻が語ったこと、何気ない日常の振る舞いが思い起こされます。不思議なことに今まで忘れていたような記憶までが呼び覚まされます。死ぬ直前に妻が自分に語った言葉、それは「私は必ず生まれ変わりますから、どうか私を探してくださいね」という言葉でした。そのときは気にも留めずやりすごした言葉だったのが、今思い返して、それがとても意味のある言葉に感じられてきます。

男はそれからいろいろな文献を読み漁り、またそうした「転生」を科学的に研究している施設とも連絡をとりながら、インドのある地方に住む少女が、前世の記憶を持っているという情報を元に、あるツアーに参加します。男は何日も広いインド中を探し回りますが、とうとうみつかりません。へとへとになった彼に、同じツアー客だったある女性が慰めの言葉をかけます。「少なくとも、奥さんはあなたの心の中に生きています」。

ここまで読んで私は、彼はいったい慰められたのだろうか、と考えてしまいます。

三浦綾子さんの「塩狩峠」、これは直接に「復活」をテーマに書かれたものではありませんが、お読みになった方も多いと思います。この小説は実在した人物、峠を登る汽車の一番後ろの車両が連結部の故障で切り離され、暴走する車両を、そのときたまたま乗り合わせていた鉄道職員が自分の身を投じて停止させ、乗客の命を救った逸話を小説化したものです。彼は勤務中ではなく、婚約者を迎えに行く途中でした。

美談ではありますが、大きな悲劇です。残された女性はどんな気持ちでしょう。

作品の終わりには、その女性が悲しみから立ち上がってゆくところが書かれています。彼女はなぜ立ち上がることができたのか? それは「復活」の希望に支えられているからです。

死が終わりではない、多くの宗教がそう語っています。チベットのダライ・ラマは死ぬたびに生まれ変わっているといわれています。東洋的輪廻思想とキリスト教の復活信仰、どちらがいいかのコメントは控えますが、少なくとも聖書の語るイエスは、ご自身の復活を私たちに、ほらここを触ってみなさい、ほら私は魚を食べているよ、ちゃんと生きているでしょう、と直接に話しかけてくださっている。そのような親近感があるように思います。みなさんも、私も、今はよくわからないことがたくさんありますが、少なくともこの聖書の記述からは、私たちは希望をもつことができるように思うのです。希望に溢れる4月です。新しい生活が始まっています。私たちも希望と勇気をもって歩んで行きましょう。