5月2日 金戸清高先生
[2023-05-02]
5月2日チャペルスピーチ 金戸清高先生
マタイ22:37〜40
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
先月の8日、ボブ・ディランのコンサートを見るため大阪に行きました。その辺の経緯についてはFBに書いていますので興味ある人は見て下さい。コンサートの2曲目に歌われたのが「Most Likely You Go Your Way (and I’ll Go Mine)」という曲です。Dylanの中では有名な曲ですが、テンポもメロディもかなり崩されていたのであとでセットリストを見て初めて気づいたのです。で、この長い題名は片桐ユズルさんによれば「きみはきみの(ぼくはぼくの)道を行くことになるだろう」と訳されています。内容は男女の別れの歌で、Most likely とは〜の可能性が高い(かなりのpossibilityで)。(ビジネス用語で「多分ね」)という熟語になっているようです。ただこの歌は発表時から「我が道を行く」と訳されていました。Dylanの詩は常に多様な解釈を可能にさせる部分がありますので、実はこちらの方がディランの意とするところを汲んだ訳なのではないかと思っています。
みなさんは大学生になってそろそろ1か月になろうとしているのですが、大学の勉強は高校までと少し違うなと思われたことでしょう。もちろん積み重ねですからこれまでの学習の延長に大学の学びがあるといえるのですが、言ってみれば「学問の世界」学問とは科学や哲学など、人間の知的活動の総称をいうとされています。みなさんは答えのない世界、真理の探究という学問の世界に入ってきたのです。4年後の卒業研究では、誰もまだ言ってないことを見つけ、それについて深く考えていくことになります。
その時必要なのは、先ほどの「我が道を行く」覚悟なのです。とかく日本人は周囲の目を気にして自分の行動を制限しようとしてしまいます。別の言い方をすれば、同調圧力に弱いのです。そしてその徴候は今の若い世代に顕著に顕れているというのです。
最近読んだ本で、今の世代の若者、Z世代というそうですが、その特徴を一言で言うなら、「いい子世代」とか「いい子症候群」とか言うそうです。
たとえば、
・周りと仲良くでき、協調性がある
・一見、さわやかで若者らしさがある
・学校や職場などでは横並びが基本
・5人で順番を決めるときは3番目か4番目を狙う
・言われたことはやるけど、それ以上のことはやらない
・人の意見はよく聞くけど、自分の意見は言わない
・質問しない
・タテのつながりを怖がり、ヨコの空気を大事にする
・授業や会議では後方で気配を消し、集団と化す
・オンラインでも気配を消し、集団と化す
・自分を含むグループ全体に対する問いかけには反応しない
・ルールには従う
・一番嫌いな役割はリーダー
・競争が嫌い
・特にやりたいことはない
そういう世代の方たちに、特に気を付けなければいけないのは、人前でほめることなのだそうです。褒めると「目をつけられる」、何かにつけ話しかけられる、人前で目立ってしまうというのです。そうなんだと色々考えさせられました。
でも、人が何を言おうが、自分はこの道を行くんだ、という覚悟が、これから皆さんに求められていくのです。その意味、これからの社会は先ほど特徴的に顕れた現代の若者にとっては、生きづらい世の中になっていくのでしょう。
ただ、ここで私達は、では自分はこれが信じる道なら、何をしても良いのかということにはならないことに気づかなければならないのです。私達は、それぞれが思い思いの道を歩んでいく、それでいいのかというとそうではない。私は何を根拠にこの道が正しいと判断するのでしょうか。その判断基準はそれぞれ違ってくる。現代は特にです。そして銘々が自分の選ぶ道が「正しい」と思って行動するのです。
するとどういう問題が起きるでしょうか? それぞれが正しいと考えてそれぞれの道を歩むと、必ず衝突が起きます。その衝突の当事者は、常に自分の方が相手より正しいことを言っている、あるいはしている、と信じています。その結果何が起きるか、対立です。今地球上のいろいろなところで起きている内紛や戦争があります。銘々が、自分が正しいと信じているのです。それ故、そうした対立は長期化、泥沼化していくのです。
私達は自分が進む道に、何かの規範となるものが必要なのでしょう。自由に責任が伴うのと同じです。では私達は何を規範とすればいいのでしょうか。昔の人の言い伝え、その人が何を思い、考え、行動したかとい
う、先人の教えに耳を傾けるのも大切だと思います。でも、そうした経験値による規範は絶対的な真理になりにくいという現実もあるのです。先人の知恵が普遍的真理に関わるものか、はたまた単なる迷信か、はっきりわからない部分も多いのです。
そこで今日の聖書の箇所ですが、他の福音書にも出てきますし、キリスト以前の時代から、神との契約に生きてきた民は、モーセの十戒を自分たちの行動規範としました。具体的には神以外のものに仕えるなとか安息日は休めとか、殺すな、盗むな、姦淫するなとか、そうした規範、聖書では律法というのですが、それを煎じ詰めればこういうことになる、とイエス様が教えられたのが今日の聖書の箇所です。
もう少し要約すると、パウロは次のように言っています。
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤ5:14)
隣人を愛するというのは、あなたの隣にいる人、すぐ近くにいる人だけを愛すればいいという意味では、もちろんありません。むしろ、困っている人、助けを必要とする人のために、進んで隣人になりなさいというのです。キリスト教が愛の宗教だという所以です。
クラーク博士の有名な言葉、少年たちよ、キリストにあって野心的であれ。この「キリストにあって」が本当は重要なのです。
みなさん、我が道を歩んで下さい。但し、常に自分を省み、これは愛に根ざした行為なのか、確かめながら進んでいただきたい。そのように願います。