みことば

一覧へ戻る

5月8日 森田哲史牧師

チャプレン 崔 大凡

[2023-05-12]

聖書:ヨハネ14:4-7

14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 

この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし

踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ

行けばわかるさ

 

これはアントニオ猪木の引退スピーチでの詩ですが、清沢哲夫という哲学者の詩が元ネタとなっています。ほとんど一緒の詩ですが、「迷わず行けよ」というところは元々は「わからなくても歩いて行け」となっています。

わたしたちは、道と言われればあらかじめ整備されたものを考えがちですが、聖書の時代の人々にとって道は人が歩くことによってできるものでした。まさに、踏み出せばその一足が道となったわけです。イエスは「どこそこに道があるから、その道を行きなさい」と言うのではありません。「わたしが道だ」というときの道は、イエス自身が歩むことによってできる道でありました。そして、その道は命が危ぶまれる道でした。つまり、十字架への道でありました。しかし、それは十字架の死で終わる道ではなく、死を通って神のもとに行く道です。

私たちにとって「イエスの道」を行くことは、「この道を行けばどうなるものか」と不安や恐れを伴うことでしょう。

私たちはたとえ洗礼を受けた信徒であっても、イエスや信仰について、なかなか捉えることが出来ません。大学に入ってキリスト教に初めて触れた人ならなおさらでしょう。しかし、私たちは、たとえ「イエスの道」が「わからなくても歩いて行け」「迷わず行けよ」と言われているのかもしれません。

分からずとも「イエスの道」を歩いて行く先に、イエスの約束が、自分たちの中で実現している、と感じたときにイエスはこの瞬間も私たちの中で生きているのです。

信仰に限らずとも、皆さんの人生の歩みは簡単に見通せるものではありません。自分でも思いがけないところに、楽しいことや喜びが待っているかもしれません。分からないことを恐れるのではなく、分からずとも一歩踏み出す勇気が皆さんに与えられることをお祈りしています。

 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。