みことば

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6月29日金戸清高先生

チャプレン 崔 大凡

[2023-06-29]

また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。(ルカによる福音書/ 13章 04節)

                                                                          金戸清高先生

2020年7月4日、土曜日の朝のことでした。67人の死者を出した熊本豪雨はまだ皆さんの記憶に新しい出来事だと思います。昨日はテゼ(Taisé)の祈りの礼拝を捧げました。今日は犠牲者追悼の礼拝ということを後で知りました。私はこれまで何度も人吉豪雨についてこちらでお話しましたし、そのうちのいくつかはチャペルスピーチ集にも載せられています。今日は既に準備していた聖書の箇所がありますのでスピーチの終わりのお祈りで犠牲者と遺族を覚え、復興を祈ることにします。

豪雨災害でいえば2012年には九州北部豪雨が、そしてこの中の殆どの人が生まれる前の出来事ですが1963年の白川大水害と、熊本は水害の多いところです。地震や洪水など、世界をみるともっと大規模な災害があります。今年2月のトルコ・シリア地震では6万人以上の死者が出ました。

こうした災害、戦争などの人災ではない災害によって命を落とされる方は、あるいはそのご家族は、どんな気持ちなのでしょう。単に運が悪かったとかいうことでは済ませない気持ちになるのでしょう。

人間は意味を求める動物です。何かあったら、それはどうしてだろうと考えるのです。原因がはっきりする出来事ならばいいのですが、そうではないもの、たとえば自然災害ですね。犠牲になった方とならなかった方には、どんな違いがあったのだろうと思ってしまうのです。

今日の聖書の箇所もそんな人間の不条理な思いが下敷きになっているのです。イエス様が生きていた時代のことなのでしょう、シロアムの塔が倒れて18人が死んでしまった。新約聖書には「シロアムの池」の出来事が書かれています。ここでイエスが目の見えない人を癒やされたと(ヨハネ9:7)。シロアムの塔の事故も、この当時最近の事故だったのでしょう。不慮の偶発事故だったと思われます。

“シロアム”とは、”遣わされた者”という意味です。ヒゼキヤ王がギホンの泉からシロアムの池に水を引いてきたという記録が旧約聖書にあります。(Ⅱ列王記20:20)ですから、このシロアムの池にギホンの泉から引いてきた水道(水溝)の事で、外敵から守る為に、シロアムの塔がシロアムの池の北に出来たのです。たまたま、その塔の補修工事の作業員か、塔の側にいた人々18人が、偶然、災難にあったという事故だったのでしょう。この件についても、18人は、災難にあったので、誰よりも罪深い人といううわさがたっていたようです。〈13:4~5〉

思わぬ災害で犠牲になった人、今なら不運とかいう言葉で片付けてしまうのでしょうが、当時は色々な事件に神の意志を汲み取ろうとしていたのでしょう。

18世紀の話です。1755年11月1日、リスボンにて大きな地震があり、6万人以上の死者を出すという災害がありました。「リスボン地震」として今も語り継がれています。問題はこの日がキリスト教の記念日であったこと、そしてこの災害がキリスト教国で発生したことで、神はなぜこんな災害を負わせたのかと、当時の人々は大いに悩んだのです。ライプニッツも一生懸命考えました。彼の結論はこういうことでした。つまり人間は神の計画のすべてを理解していないので様々な場面で不平不満を言うが、全知全能の神はすべてを熟慮して、ベストな選択をしたのだ、と。それでも苦しい説明で、ルソーがこれを批判します。「神がかつて果たした役割を、これからは人間が、あるいは人間の理性が果たさなくてはならない」と。ヨーロッパの知識人は理不尽な大災害に対して明らかに激しい動揺を感じ迷っていたようです。(この話は2011年ベストセ

ラーになった新書本「ふしぎなキリスト教」の続編、「やっぱりふしぎなキリスト教」の冒頭部に書かれています。)

問題はこれを、犠牲になった方はその先祖が悪いことをしていたからだとか、あの人達は元々神に嫌われていたのだとかいって理由づけようとする人が、昔も今もいて、そんな人が被災者の弱みにつけこんでそれをお金もうけの材料にしたりする、そんな人がいるということです。

あなたの先祖が悪いことをしたからこうなったんだとか、あなたは先祖をちゃんと供養していないからこんなに悪いことが起きるのだとか、そう言われるとどうしても遺族は気持ちが弱っていますからつい欺されてしまう。あるいは自己肯定感が持てなくなってしまう。そんな悪循環が起きてしまいます。

まあ、運がわるかったとかいって諦められる人はそれでいいのかもしれません。仏教のお坊さんなら、亡くなった人は生きている人に大切なメッセージを送っている。あなたもいずれはこうやって、いつかは突然死んで行かなければならないのだから、今のうちに阿弥陀さんにお縋りしなさいとか、そう言うに決まっています。諦念というか、無常観ですね。それも現実的な割り切り方かもしれない。

私も今はっきりとこれが答えだと皆さんを説得できるだけの材料を持ちません。ただ、これをきっかけに神から離れるよりも、なおかつ神を信頼して神とともに生きる方が、私たちにとって得というか、人生に大きな意味を見いだすことができるようになると、経験的に、そのように私は考えているのです。今、起きている意味はわからなくても、なおかつ神を信頼することができる、私は個人的にはそんな根拠をもっていますが、それは個人的な見解、つまり神が私にだけみせてくれるような、そのような根拠ですので、みなさんにこれと説明はできにくいのです。でも、神によって示されたその根拠をよすがに、神を信頼して生きること

ができれば、私たちの人生は大きな意味を持ってくるのだと、これだけは言うことができます。

その「時」は、いつかわわからないけれども必ずみなさん一人ひとりに訪れます。その「時」を見逃さなければ、神はご自身が信ずるに足る存在であることを示してくださいます。

何だかわけのわからない説明で申し訳ないのですが、イエス様は今日の聖書で何とおっしゃったか、シロアムの塔の犠牲者はあなたがたに比べて特に罪深かったわけではないと。つまり、あなたがたも、なくなった人たちも、大きな違いはないのだ。あなたが犠牲になって他の人が助かる可能性もあったのだということです。ではなぜ助かったのか、そこに神の意志が働いている。それはとりもなおさず、神があなたをえこひいきしておられる、その証しではないでしょうか。

少なくとも今あなたが生きているということは、神からなにがしかの役目を仰せつかっている。それが何かを知るてだては、実はこの礼拝で解き明かされる神の言葉、聖書の中にある、そのように私は信じています。

いつの日かみなさんが神と出会う、そんな「時」が訪れることを願ってやみません。