みことば

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7月3日金戸清高先生

チャプレン 崔 大凡

[2023-07-03]

パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます。 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。(使徒言行録17:22〜23)
                                                                          金戸清高先生

毎日チャペルに来てくださっている方は、金戸は何回スピーチをするのだろうと思っていることでしょう。先週木曜日にお話したばかりですから。今日はチャプレンが体調不良で急遽私がメッセージを語ります。

先月末学会で横浜に行ったのですが、今回は発表があったので物見遊山というわけにはいかなかったのですが、日曜日は湘南の教会で礼拝を受けまして、その時の聖書の箇所が今日とりあげられていたのです。牧師の説教はとても興味深かったのですが、私は少し違った観点から今日はお話しようと思っております。

本学の旧職員で、黒羽茂子先生という人がおられまして、まだご存命ですが、その先生も月1回ほど、チャペルでお話をされていました。もう20年ほど昔の話ですが、その先生は山登りが趣味で、休日にはご主人といろいろな所に行かれたそうです。もう年齢も重ねてきて、そのうち杖を使うようにしました。最初はその辺にある棒きれを使って、用が済めばその辺に捨ててしまったりしていたのですが、ある時、専用の杖を買ったら、それがとても使いやすく、もう他の代用品は要らなくなったという話でした。

日本人の宗教観は、私は多神教(パンテイズム)だと考えています。仏教も信じているのですが、色々な神社にお参りしたりします。八百万(やおろず)の神と言ったりして、実際それを数えたりした人がいるのだ

ろうかと思ったりします。旧憲法では天皇も神ですね。これは日本人が無宗教だからだという人もいますが私はそうは思わないのです。カルヴィンは「宗教の種」という言葉を使いますが、凡ての人に宗教の種が植え付けられている。その宗教心がいろいろな形にあらわれるのだというのです。

5年前テレビで知った情報なのですが、「イスラム教最大の宗教行事である『メッカの大巡礼』に集まる信者の数は約200万人。これに比べて正月3が日に『明治神宮』を参拝する人は約320万人にものぼり、実に1.5倍」というのです。全国的には9000万人が初詣をするという。この話は以前チャペルでしたことがあります。

私が熊本に来る前に住んでいた宝塚市は、阪急電車が走っているところでしたが、その阪急線には「門戸厄神」とか「清荒神」などといった駅があります。どんな神社か行ったことはなかったのですが、おそらく疫病神や荒神(あらがみ)が祀られているのでしょう。そんなところに不用心に行ったら、逆に不幸になるのではないかと思うくらいなのです。私の生まれ故郷の兵庫県赤穂市では、大石神社というのがあり、大石内蔵助が神様になっている。お隣の岡山県には最上稲荷というのがあり、大きな狐の石像があったりします。私の出身大学は山口でしたが、山口県の下関市には乃木神社といって、乃木将軍が祀られる。こういう具合に日本人は人間や動物、そして長寿の樹木などさえ神にする。所謂アニミズム信仰ですね。しかも今は「令和の占いブーム」と言われているそうで、不確かな時代、何かにすがりたいという気持ちのあらわれなのでしょう。

パウロが生きていた時代のアテネもそんな時代だったのでしょう。町のいたるところに様々な神様が祀ってあるのを見て憤ったといいます。キリスト教は一神教なのでゆるせなかったのでしょう。それでも彼は、怒りにまかせて説教をしたのではありません。まずパウロは、アテネの人々がとても信心深いということに感

心したという所から話し始めるのです。信心深いのはとてもいいことだ。でも、何を、どう信じるのかが大切なのだと言いたいのです。さっきの、杖の話を思い出しながら聞いて下さい。

パウロはこのように続けます。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう」と。

先ほど私は現代日本人の宗教感覚は、見通しのきかない社会に対する不安の裏返しであると言いました。出典は忘れたのですがある本の著者がIT関係の方から名刺をもらったら、そこに妙なデザインがあったそうで、「これは何ですか」と尋ねたら、「よくわかりませんが、風水かなにかで、こうすると運気が上がると言われたもので」と言うのです。現代テクノロジーの最先端を行っている人が風水に頼りたくなる、日本人の文明意識なんて、たかがそれくらいのものなのかもしれません。何かにすがりたい、だからいろいろな神を祀っている。疫病神に神社をたてて、「どうか家にこないでください」と祈る。それでいて、「この神様にお願いしたのだからもう安心」と思えない。だから他に色々な神様を作っていく。無制限に。

パウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいる」神様がいる。その神さえ拝んでいれば、他に何も心配はいらないのだと、そのように話しかけているのです。それは、聖書に書かれている、全知全能の神、その独り子の命を人間のために犠牲にされるほど愛に満ちた神のことです。

もちろんパウロの話を聴いたアテネの人は、ある人は無関心になり、ある人は神を信じるようになったといいます。みなさんも何を信じるかは自由です。今の時代、「これ1本でOK」とかいうCMほどうさんくさいものはないと思われています。それでも、2000年の時代の淘汰に耐え抜いた世界観のひとつであるキリス

ト教は、そのように皆さんに語りかけている。今は信じなくてもいいですが、大学にいらっしゃる4年間、少しは関心をもち、礼拝の話に耳を傾けていただければ幸いです。もちろん4年以上在籍する先生方はなおさらのことですが。