6月26日学生スピーチ
[2023-08-28]
おはようございます。心理臨床学科3年です。今日このように皆さんの前でお話しさせていただく機会が頂けたことを感謝いたします。この学生スピーチのお話をいただいた時、何を話すべきか大変迷いました。私の短い人生ではありますが、成長する過程において感じたこととそれらを通して学んだことについてお話ししたいと思います。
皆さんは自分自身に対して「こんな才能がある」「人よりも優れている」と思える部分がありますか?あると自信をもって言える方は少ないのではないでしょうか。実際「日本人の自己肯定感の低さは世界でもトップクラスだ」などということは度々様々なメディアで話題にされます。私もその例に漏れず、これまでの人生でかなり長い期間をあまり高いとは言えない自己肯定感と共に生きてきました。私は小学2年生の頃、初めて自分のポテンシャルについて考えました。何か特別だといえるようなきっかけはありませんでしたが、突然「自分には何もない」と思いました。それは当時の私にとってとても衝撃的な発見であり、漠然と「自分はこのまま何を成し遂げることもなく、死んでいくんだろう」と恐怖のような半ば諦めのような気持ちになったことを今でも鮮明に覚えています。普段からそんなことばかり考えて生きていたわけではありません。しかし虚無感を覚えて以来、ふとそのことを思い出し、焦りのような受け入れがたい、気持ちに悩まされることが高校生頃まで頻繁にありました。特別頭が良いわけでも、運動神経や容姿に恵まれているわけでも、何か秀でた才能があるわけでもない。性格も良いとは思えず、コミュニケーションも得意ではない。加えて「こんなに自己肯定感が低い自分そのもの」でさえ嫌いでした。このように、特に中高生の頃の私は「自分以外の人は何かしら良い部分を持っているのに自分ばかりどうしてこう何もないのだろうか」とかなり鬱々とした気持ちを抱えていました。
それから少し経ち、高校生の頃までとは違う悩みを大学に入学した当時の私は抱えていました。その頃自分が置かれている現状に対し言葉では言い表せないような何となく感じる不満を心のどこかに抱えていました。実は高校生の頃、私の第一進路希望は大学進学ではなく、留学でした。これから進路について具体的に決めていく、という高2の冬のタイミングで新型コロナウイルスの感染拡大が起こりました。国内でさえ、県外への移動は規制され、不要不急の外出自粛が求められる中、海外に留学するなどもってのほかの状況でした。皆さんもご存じのとおりパンデミックがどのくらいの期間続くかわからず数年間に渡って規制状態が続くかもしれない、と言われていました。当時の私は新型コロナウイルスが収まるまで、進学はせず働きながら留学に向けた勉強をして、タイミングを待つことも考えていました。しかし「国内で数年待つなら、その間に大学卒業できるんじゃない?」という周りからの言葉で大学進学を視野に入れ行動を始めました。そして、中学時代にたまたま読んだ心理学の本が面白かったことを思い出し、本学の心理臨床学科に進学しようと決めました。コロナにより、当初の予定とは違うとはいえ、自分の意志で大学進学という道を選択しました。それなのに不満を感じてしまうのはなぜなのか自分でもよく分かりませんでした。
そのような気持ちで学生生活を過ごす中、授業で「エリクソンの心理社会的発達理論」というものを学びました。この理論は、人間の人生のそれぞれの時期には獲得すべき心理的な状態である「課題」と乗り越えなくてはならない「心理社会的危機」があるということを示しています。例えば、乳児期の場合、養育者に対する基本的信頼感を獲得することが「課題」です。この基本的信頼感を得られた子どもは、希望を持ち、その後に出会う様々なものを信じることが可能になります。しかし、この時期に養育者から適切な養育がなされなかったり、そもそも養育者が不在であったりした場合は基本的信頼感を得られず、負の感情が消えないまま基本的不信感を持ち続けることになります。これが乳児期における「心理社会的危機」です。この理論では中高生の年代にあたる12歳から19歳までの時期は青年期と呼ばれ、この時期は自分が何者であるか、ということを考え、自己の同一性を獲得することが「課題」です。一方、乗り越えなくてはならない「心理社会的危機」は自分が何者かわからない、自分がバラバラに感じられるといった同一性拡散の状態になってしまうことです。また、この時期は自分自身に注目が向きやすく、「自分だけがこうなのではないか」というような極端に思い詰めた思考になりやすい時期であることもわかりました。この事実を知って最初に思い出したのは自分の中高生時代のことでした。中高生時代の私は「自分だけが何もない」と悩んでいましたが、自分だけではなかった、むしろそのような悩みを抱えること自体がその時期の正常な発達だったということに気が付き、腑に落ちると同時に少し気持ちが楽になっていきました。授業で毎日新しいことを知る日々を過ごすうちに、私にとって大学で心理学を学ぶことは自分自身の思考を知ることだと感じています。
最近入学当初に感じていた「何となく不満な気持ち」をあまり感じなくなっていることにふと気がつきました。なぜ感じることが少なくなったのか、そもそもあの漠然とした不満感は一体何だったのか、ということを考えてみました。その原因はおそらく、自分の選択に対して心から納得感を得られているかどうかにあったのだと考えています。自分で決めた進路とは言え、予想外の状況の中で自分の気持ちがまとまらないまま進路希望調査書を提出しなければいけない時期になったというのが正直なところでした。そんな状況で「本当にこれでいいのか」と葛藤しながら日々を過ごしていた受験期の自分に納得していなかったのは当然のことだと感じます。迷いを持ちながら選んだ大学進学という道の中で、今は自分なりに意味を見つけて日々を過ごすことができています。私が好きなYouTuberの方は自身の進路について悩んだ時「どの選択が自分の心を満足させるかを基準に決める」という話をされていました。私は当初の進路希望を変更してこの大学に入学したという事実は変わらないにも関わらず、不満感が消えていったのは大学で心理学という学びを通して漠然と感じていた思考を改めて客観的に考えたことで新たな学びをより吸収する向上心が芽生えたことで「心が満足する」状態を得たからだと思います。
このような経験を受け、今日はヨハネによる福音書8章32節「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」という言葉を選ばせていただきました。おそらくこの箇所が言う「真理」とはキリスト教的な見方で言えば「イエス・キリスト」や「キリスト教の信仰、教え」を指すのだと思います。しかし、今日は敢えてこの「真理」という言葉を「正しい道理」や「その物事に関して例外なくあてはまり、それ以外には考えられないとされる知識・判断」といった一般的に多く用いられる意味で解釈してみたいと思います。今日選んだ聖書の言葉はこのように言えるのではないでしょうか。正しい知識を学ぶことで自分自身を俯瞰して見ることができ、自分の言い表せない感情や思考を心理学という学問を通して理解し納得することで心が楽になったという私の経験をよく表しているように思います。聖書の言葉は読む人によって、また同じ人でもその時置かれている状況に応じて色々な捉え方ができ、その時々自分が求めている答えを見つけることができるところも良い点の1つだと私は思っています。
おそらく、これからも私は自分自身や進むべき道について何度も悩むことがあると思います。しかし、この大学生活を通して得た「正しい知識を学ぶことが自分を自由にする」という気付きは今後、自分の心の拠り所になると何となく確信しています。この先様々な物事において自分1人では考えが行き詰まってしまった時、この言葉を思い出し、まだ自分の知らない知識や先人たちの知恵を学ぶことで解決の糸口が見つかると思います。狭い視野でしか物事を見ることができない時こそ自分よりもっと大きな存在に目を向けたいと思います。
一言お祈りいたします。
神様、今日このように皆様の前でお話させていただく機会をくださったこと感謝します。また私たちに様々な場所や場面において学ぶ機会が与えられること感謝いたします。私たちは時に自分のことばかりに意識が向き、そのことが自分自身を苦しめてしまうことがあります。そのような時こそ私たちに俯瞰して物事を見ることができるよう導き、解決の糸口となる正しい知識が学べるようあらゆる場面において機会を学院に連なるすべての人の上にお与えください。このお祈りを主の御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。