みことば

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11月13日金戸清高先生

チャプレン 崔 大凡

[2023-11-13]

  • 「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒やし 命を墓から贖い出してくださる。」(詩編103:3〜4a)
                                                                              金戸清高先生

    最近私の話はどんどん難しくなっているという自覚があり申し訳ないのですが、みなさんにとってとても大切な話だと思いますのでどうかおつきあいください。また私のメッセージはほとんど大学宗教センターのHPにアップされていますのでどうぞそちらの方も御覧ください。

    3週間ほど前、中学校に勤務している長女からラインが来て、道徳のいい教材はないかと尋ねられました。なんでも「向上心、個性の伸長が内容項目で、自分自身を振り返る、自分の行動を反省する、ていう方向に持っていきたい」とのこと。すぐに思ったのは、これは私の専門である文学とは全く志向性の異なるものだということでした。そのような返信をして、「二宮金次郎」(最近のみなさんは知らないかもしれませんが)の伝記でも紹介したらと付け加えたら、良い教材が見つかったというのです。それは「銀色のシャープペンシル」という教材でした。ひょっとして皆さん習ったことがあるのでしょうか。こういう内容の話です。

    ぼくは掃除の時間、たまたまゴミ箱に入っていた銀色のシャープペンシルを見つけ、たまたま自分のをなくしたところだったのでそのままポケットに入れてしまいました。捨てられていたのだから構わないだろうと。ところがその後たまたま友達の前でそのペンを使うことがあって、友達の卓也が「それ、僕のチャーペン…」と言いかけるとその場にいた健二が「お前盗ったのか」ととがめるのでとっさに、「違う、これは自分で買ったんだ」と言ってしまった。それでも心が咎められたのでその後こっそり卓也の筆箱に返しておいた。

    するとその夜卓也から電話があって、「ごめん、僕の勘違いだった」と言われる。僕はその電話を置いた後、卓也の家に出かけていく。

    ある指導案にはこの教材の主題は内容項目D「人間には自らの弱さや醜さを克服する強さや気高く生きようとする心があることを理解し,人間として生きることに喜びを見いだすこと。」を基に設定したものだそうです。これを読んで、ちょっと違うんじゃないかなと思ったのです。もちろん道徳教育は専門ではありませんのであくまでも個人的な見解ですが。

    つまりこの物語には奇妙な偶然が重なるのです。まず僕がたまたまゴミ箱からシャーペンを見つけたこと、たまたま自分のものを失くしたところだったこと、落とし主の卓也が「それ僕の」といいかけた時、健二に急に「お前盗ったのか」と言われて僕がきちんと説明できなくなったこと、それでも心が咎めてこっそり返したら先に卓也から謝られたこと、などです。これは偶然というより、「神」の操作と言った方が適切でしょう。つまり「作者」という「神」です。何のためか、それは先ほど説明した指導内容を物語で寓意(アレゴリー)として示すためなのです。

    寓意とはたとえばイソップの童話のように隠れた意図があること、たとえば「オオカミが出た」と言い降らした少年の話は、「嘘をついてはいけません」という教訓が語られているわけです。この教材はそうした寓意がわざとらしく感じられると言いたいのです。

    以下は教育学者である桜井智恵子さんの著書からの引用です。

    「(小学校道徳学習指導要領には)自由には責任感を持った自律性が伴っていなければならず、自己責任を伴うという。これを加えて、求められている道徳的な国民像を整理しよう。どのような国民像が求められているのかが見えてくる」。それは「自分の長所を伸ばし、わがままはせず、安全に気を付け、節度ある生活をし、やるべき勉強や仕事をしっかりと行い、社会のきまりを守り、義務を果たし、責任感と自律性、自己責任を伴った自由を備えた国民」像だというのです。

    こうした国民像は資本主義の求める「生産的な勤勉さを倫理とするもの」といえます。つまり「道徳の思想

    基盤は資本制組織原理にあった」(M.ウェーバー)というのです。日本人は昔から「勤勉な国民である」と言われましたし、そうした勤勉さが近代以降の資本主義社会の発展に大きく貢献した、かくして日本は経済大国になったと言えるかもしれません。私たちの職業倫理や規範意識は、ある意味国家の戦略によって教育されて身についていっていると考えると、なんだかいやな気持ちがします。高邁な人間精神が国家によって養われているというのが気にくわない。

    私は道徳教育のありようを批判するつもりはありません。ただ、今の法制度上、教育の理念や内容は時の権力者によって容易に変更できるようになっていますので、未来を生きるみなさんは、社会や情報に対して何が正しいことなのかを見抜く力、健全な批判能力、つまりクリティカル・シンキングを養う必要があると訴えたいのです。今日本がとても難しい局面にあるのです。だから自分たちの国がおかしな方向に進んでしまわないように、私たち一人ひとりが、しっかり目を見張っていなければならない時だからです。

    私が娘にラインをもらった時、与えられた指導内容、つまり「向上心、個性の伸長が内容項目で、自分自身を振り返る、自分の行動を反省する、ていう方向に持っていきたい」というメッセージから、実は全く違った物語を連想していたのですが、先の「銀色のシャープペンシル」のオルタナティヴ(代案)になっていることを発見しました。それは有島武郎の童話「一房の葡萄」です。

    「僕」は横浜の洋学校に通っていました。小さい頃から絵が好きで学校帰りに見た海と大きな船を書きたいと思ったけれど自分の絵具ではどうしてもその色が出せませんでした。学校では日本人は僕だけでしかも一番年下でした。気が弱いので上等な絵具がほしいと思いながら親に買ってくれと言えなかったのです。つまり自己肯定感の低い子だったのでしょうね。クラスメイトのジムは絵が下手なのにとてもきれいな絵具を持っていてそれが羨ましくてしかたありませんでした。ある時僕はとうとうジムの絵具を盗んでしまいました。それはすぐに露見するところとなり、僕は大勢のクラスメイトに引っ張られ、先生のところに連れて行

    かれました。先生も西洋人で、髪を短く切った色白の優しい方でしたが、クラスメイトから事情を聴いた時、少し暗い表情をされましたがそのまま子どもたちを教室に戻してしまいました。その次の時間は先生の部屋で待機することとなったのですが、僕はずっと泣き続け、泣き疲れて眠ってしまったみたいでした。帰ってきた先生は僕を起こし、みんなはもう帰ってしまったこと、明日はどんなことがあっても学校に来ることを約束させられ、僕はしょんぼり家に帰りました。翌朝、僕は学校に行きたくなかったけれど、先生との約束を守るため、重い足取りで校門をくぐりました。するとジムが待ち構えていたように僕に駆け寄り、手を引いて先生のところに連れて行きました。部屋の前で待っていた先生が、「ジムはもうあなたに謝ってもらわなくてもいいといっています。さあ、二人とも仲良く握手しなさい」と言われ、僕は思いがけない展開に何があったかわからないながら、心が軽くなったのです。そして僕は前よりは少し良い子になりました。その西洋人の先生には再び会うことはなかったのですが、その時いただいた一房の葡萄の色と味を今も忘れていません。

    これは40歳を超えた有島が、自分の子どものために書いた童話だと言われています。そして有島はそのⅠ年後には不幸な出来事死んでしまうのですが、この物語は自分の幼少期、彼は今の横浜英和学院での実体験だったと語られています。つまり人間の人格形成には(つまり教育の目標である「人格の完成」のためには)、自分の罪が赦されたという体験がとても大切だったと言いたかったのです。悪いことをして罰せられるのが当然で、周りに一人の見方もいない中、つまり四面楚歌の中、上に、すなわち天に希望があった、救いがあったというのです。

    仏の顔も二度三度と言いますが、イエスは7を70倍ゆるしなさいと言われる。なぜなら神様はあなたがどんな悪い人間でも赦してくださる方だからですよと、聖書は語っているのです。神の存在に気づき、赦しの体験をもった時始めて人間は人間らしく生きていけるのではないでしょうか。隣人を愛しなさいと聖書にはありますが、まず自分が赦されたという体験なく、人を愛したりルールを守ったりすることはできないのだと思います。まず神があなたがたを選び、愛しておられることをいつも覚えてこれからの人生を歩んでい

    ただきたい切に願っています。