2024年1月9日チャペル礼拝 メッセージ:崔チャプレン
[2024-01-09]
2024年1月9日(火) ルカ10:36∼37
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
おはようございます。今日から大学の授業が再開する日を迎え、チャペル礼拝もこのように始まっています。2024年の最初の礼拝となりました。
皆さんは、今日の寒い朝、学校に来られたことと思います。私も朝から出勤しながら寒さを感じると共に、久しぶりに登校する高校生の姿、出勤する人々の姿を見ることができました。こうして私たちの日常が戻りました。
しかし、皆さんも正月からニュースで聞いているように、被災地においては戻らない日常の姿であることを思い起こします。出勤できずに、避難場にいる人々の姿があることでしょう。こう思うと、私たちは時々、日常から離れたいと思ったり、時には忙しさや疲れを感じたりする私たちの日常ですが、日常は大切なものであること。私たちが生きる、学ぶ、働く基盤であることを改めて思います。
また昨日は「はたちを祝う日」でもありました(地域によって日にちは異なるようですが)。私たちの地域も昨日、はたちを祝う人々の姿があり、ルーテル学院高校においては「はたちを共に祝う会」もありました。しかしこれも同じく、今回の被災地(石川県周辺)においては、ただただ喜びの内に祝いの日を迎えることができない、皆さんと同じ年代の人々がいることを思います。
この世の災害は私たちが祝いの日とする時を避けて発生したりはしないことを、私たちはこの年の始まりの日から知りました。私たちも明日がどうなるか…いつ、どんな形で災害や困難に遭遇するか分からない人です。ただそういう一人一人です。だから、ある時は困難の中にいる誰かを助け、ある時は私たちが困難の中で助けられ、誰かと繋がって「隣人」として生きる私たちであります。
それはイエスの教えでもあります。聖書の中でも有名な「善いサマリア人」のたとえ、キリスト教学校に通っていれば必ず、繰り返し聞いて読む個所です。語られていることは理解するに難しい事柄でもなく、私たちの知性と理性がすでに知っていることでもあります。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」「その人を助けた人です。」と答えるのは当然です。それを知っている人に、そしてこの言葉を再び聞く私たちに主イエスは言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
改めて成人になることとは何でしょう。守られて、養われて生きてきた中から、これからは自立して生きる人、また誰かを助ける必要がある時には誰かを助け、今度は誰かを守ってあげる人になることでもあるのではないかと思います。これは決して間違った考えではないでしょう。そもそも大人になって仕事をことは、その仕事を通して「誰かのためになる人」になるということでもあります。
将来の仕事のために、今はこの学校で学びと備えの時期を過ごしている学生の皆さん。中にははたちを迎えられた皆さん。皆さんがこれから良き成人、誰かへの良き隣人になることを祈りつつ、いつか分からない将来だけでなく、今も、災害と試練、困難の中にいる人々のことを思う「隣人」になることを祈ります。できることなら、これから私たちにできる助け、活動を誰かのために行う私たちであって欲しいと思います。なぜなら私たちはこの世を生きる中で誰かの隣人として生きるべき私たちであり、誰かの隣人になることはとても大切なことだからです。祈りましょう。