みことば

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5月13日 金戸清高先生

チャプレン 崔 大凡

[2024-05-13]

「神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた」創世記 3:21

金戸清高先生

おはようございます。5 月になったなと思ったらもう半ばになってしまいました。連休ぼけもなおり、私たちも日常のリズムを取り戻しつつある状態ですね。
私はチャペルで歌の話をよくするのですが、そのほとんどは皆さんに馴染みの薄いものが多いのですが、少し前のことです。「不適切にも程がある」というドラマが話題になっているようです。昭和のおじさんがいきなり現代にタイムスリップする話だということですが、私の音楽の趣味はやはり時代遅れかなと思います。それでも今日取り上げる歌はみなさんもよく知っている歌ではないかと思うのです。
Superfly の越智志帆さんの歌はすごいと思います。私の中では1970 年に亡くなった Janis Joplinに匹敵する歌い手です。その中で「愛を込めて花束を」という歌は有名ですがその中にこのような歌詞があるのです。
「何度も間違った道選び続けて/正しくここに戻ってきたの」
ここのフレーズを聴くと私はどうしても涙ぐんでしまうのです。聖書で言うと放蕩息子が父親の家に帰ってきた時のような、そんな場面を思い出してしまいます。

私たちは人生で色々な選択を余儀なくされます。簡単な場面ではたとえば今日の昼ご飯をあれにしようかこれにしようかという選択、洋服の色をどちらにしようかとか。もう少し大きな局面ではどうでしょうか。たとえば大学選びですね。その他にも職業選択や結婚や、その局面が大事であればあるほど迷いも大きく、選んだ後も「これでよかったのか」と思い返したりします。

昨年末、黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」が映画化され話題になり、更に 90 歳徹子さんがその続編「続窓ぎわのトットちゃん」を書かれたのです。そこにはトモエ学園以降、東北への疎開から音楽学校、そして NHK で働くようになった彼女の経歴が面白おかしく語られていました。私もこれを読んでとても感動したのですが、1 箇所、心に引っかかったところがあります。

音楽学校の学生時代、自分の進路に迷っていた頃誰かが教えてくれた言葉として「神さまはどんな人間にも、かならず飛び抜けた才能を一つ与えてくださっている。でも、たいがいの場合、人間はその才能に気づかず、違った職業を選んで一生を終える。アインシュタインやピカソといった人たちは、うまく才能と職業がぶつかったケースだ。」(続窓ぎわのトットちゃん 2023 年10 月講談社)

おそらく徹子さんはその言葉には賛同していないだろうと思うのですが彼女はその「誰か」の言葉についての感想は書かれていません。90 歳になった彼女が自分の生涯を振り返って、ああ、自分は神さまが与えてくださった才能を活かすことができたのだ、いや、自分がいただいた才能を、神さまが活かしてくださったのだと思い返すことができたからかもしれません。

山本周五郎という作家は、小学校を卒業し、旧姓の中学校に合格できたのに、お父さんに「質屋の丁稚に」させられてしまうのです。その後苦労して作家として身を立てていくのですが、晩年社会党(今の社民党)の委員長で有名だった飛鳥田一雄(いちお)さんと対談した際、飛鳥田さんが「自分はこの職業が向いているとは思っていないが一生懸命働かせていただいている」というようなことを言われたそうです。その時周五郎はごろんと横になってそれ以上話をしなくなったといいます。あとでぽつんと「俺は向いていたから丁稚になったのじゃない」と。

みなさんの中には、ひょっとして、今自分が選んだ道が、本当に正解だったのだろうか、これでよかったのだろうか、もっと別の選択肢があったのではないだろうかと悩んでいる方がいらっしゃるかもしれません。神さまはたった一つ自分に備えてくださった才能とは、違う道を歩んでいるのではないだろうかと。今、自分はこんな才能があると思っているけれどもそれは本当の才能なのだろうか、とか、自分は何の取り柄もない。才能なんてどこにあるのかわからない、とか。多くの方がそんな思いをいだいたことがあるのではないでしょうか。「何度も間違えた道」を歩き続けているのではないだろうか、自分は正しくここに、神様のところに戻ってくることができるのだろうか、と。その答えはおそらく自分がこの生涯を終えるまで出て来ないものかもしれないのです。私だってそうです。でも 65 年、たぶん人生の第 4 楽章に入っていると思うのですが、これまでを振り返ってみればまさに波乱の人生、ちょうどみなさんの年齢の時には 40 年後にこんな生涯を送るとは、全く予想もつかなかったことなのです。それでも私の人生が神に喜ばれるものであったのか、まだわかりません。

哲学の用語で「決定論」(determinism)というのがありまして、簡単に言うとあらゆる事象の生起と帰結が前もって決定されているとする立場です。発達心理学でも遺伝か環境か、輻輳説かといった義論があったようですが、人間が生まれながらどのような生涯を送るか、もうある程度決まっているという説もあるようです。そうすると我々に自由意志はないのかといってそれに抗った哲学者もいるのですが。

さてそろそろ結論に入りますが、私たち一人ひとりの人生、地球上の 80 億通りの人生、すべて神様の頭には入っていることでしょう。それは決定ではなく、神学的には予定と言われますが、私たちが自分の人生、ひょっとしたら道の両側が千尋の谷のようでその先端を歩くようなものなのかもしれません。いつ踏み外すかわからないような人生です。でも、神様はわたしたちの首根っこをしっかり支え、時には先頭に立ち手を引き、時には背負いながらその道をともに歩いてくださるということを聖書は語っているのです。今日読みました聖書、最初の人間であるアダムとエヴァが神の命令に背いてエデンの園にいられなくなる時の様子です。神は裸の二人に「皮の衣」を着せたとあります。神は自分に背くような行為を人がしたとしても、一方で私たちに助けの手を差し伸べている。皮というのは動物の命を犠牲にして作られたもの、人間を外からの攻撃や寒さから守るものです。つまりイエスの十字架の犠牲を予示するものと解釈されます。原福音といわれる所以です。

だから、今悩んでいるみなさん、勇気をもって道を踏み外しましょう。どんなことがあっても神は私たちを「正しい」道に戻らせてくださるのです。どんな道を歩んでも、私たちが生涯を終えるとき、その人生を神は祝福されるのです。私たちの愛を込めた花束を、神はきっと喜んで受け取ってくださるでしょう。