みことば

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6月10日 金戸清高先生

チャプレン 崔 大凡

[2024-06-11]

マタイ7:2〜4 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。/きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。/きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。

金戸清高先生

国土交通省は3日、トヨタ自動車など5社で、車の大量生産に必要な「型式指定」の手続きを巡る認証不正があったと発表した。 トヨタの奥田会長 記者会見で自身の心境を問われ、「ブルータス、お前もか」とのコメントを発したと言われています。SNSに書いたのですが、これは相当マスコミに叩かれるのではないかと思っていたのですが、今のところ何もありません。やはりトヨタだとマスコミも忖度するのかなと思ったりしています。

「ブルータス、お前もか」はシェークスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」からの引用です。カエサル(シーザー)が皇帝になったとたん独裁的になっていき、共和制を望む元老院の反発を買い、暗殺されてしまいます。そのグループにかつての腹心であったブルータスが加わっているのを見たときの、カエサルの言葉です。

昨年末のことですが、ちょうど子会社であるダイハツの不正が摘発された際、トヨタは無関係を主張したのですが、同じ様なことを自分もやっていた、身内に裏切られた思いをさして「ブルータス、お前もか」と言っているのでしょうが、自分だけが被害者であるかのような発言は当事者意識に欠けていると言わざるをえないのです。 ただこうした人のアラはよく見えるというのが今日のお話の趣旨です。最近、といってももう1年ほど前かもしれませんが、「マン・スプレイニング」という言葉をよく聞くようになりました。男性から上から目線で説明や説教をされる。女性たちの経験からネット上で生まれた造語だといわれています。元になった本「説教したがる男たち」が2018年に翻訳出版されたのです。著者ソルニットさんの体験ですが、ある男性が「重要な本だ」と紹介してくれたのは、自分の著書だった。男性は本の内容を自信たっぷりに説明し始め、同席した友人が指摘するまで気づかなかったというのです。

6月2日の朝日新聞の記事で、女性たちの体験談が紹介されているのですが、出るわでるわ、その中のひとつを紹介します。

 50代の大学教員の女性は1年ほど前、ネットで「マンスプレイニング」について知った。「あの時経験したことには名前があったんだ」。そう腑(ふ)に落ちたという。  数年前、ある学会に参加した。懇親会の席で、初対面の年配の男性研究者から声をかけられ、思わぬことを言われた。「もっと登壇者の話を真剣に聞いて、メモをとった方がいい」  男性はとうとうと、学会に参加する「心がまえ」を語ってきた。当時、女性は赴任先の米国から帰って間もなかった。久しぶりに参加した日本の学会の様子が新鮮で、発表を聞きながら何度か周りを見回していたのを、男性に見られていたらしい。「研究者でなくて、大学院生だと思われているのだろうか」。なぜわざわざ説教されたのか、疑問だった。

 翌日の学会で、女性はあるセッションの座長をつとめた。壇上で目の前の席に座っていたのは、前日に「説教」してきた男性だった。決まりが悪そうにうつむき、セッション中、女性の方を一度も見なかったという。  研究する分野は、理系の中では女性が多い方だ。だが年配の男性にとって「自分は同じ研究者だとイメージしづらく、女性だから言いやすかったのだろう」と言う。 こうした学会という特別な状況だけでなく、日常私たちが目にするテレビの番組でも、専門家である男性のコメンテーターの話を女性アナウンサーがうなずきながら聴くというような場面はよく見かけますよね。

私は教員ですから授業では専門家としてみなさんに色々なことを喋る、教える立場にあるわけです。それが習い性となって色々な場面でとくとくと説明をしたりしてはいないか。特に家庭での会話などで、と思うとこれは他人事ではないと思い始めたのです。

たとえば保育にしても、実は妻の方がプロパーだったりしますし、音楽好きではありますが専門といえば娘の方です。英語は次男が専門、長男は金融、次女はそのうち歯科医になります。なのに家庭ではさも得意げに自分の知識をひけらかしたりするのです。ほんとうに気をつけなければ。

グレゴリー・ベイトソンによれば、無意識はフロイトが考えたように抑圧されたことがらだけから成るものではなく、習慣化された情報の記憶からも成り立っているという。

無意識のなかに含まれるのは、意識がふれたがらない不快な事柄だけではない。それ以上詮索する必要のないほどわれわれが熟知している事柄も多く含まれるのである。<中略>恒久的に真であり続ける関係性についての一般事項は無意識領域に押しやり、個別例の実際的処理に関わる事項は意識領域に留める、という答えがシステムの経済の要請からでてくるのである(ベイトソン『精神の生態学』、219−220頁)

バイアスとか先入観・偏見とか言われますがAはBだと思いこんでいると思考がショートカットされ、正しい情報が入らなかったりするのです。

人のアラはよく目に付く。けれど自分のアラを自覚するのは難しい。聖書では自分の目の梁が人の目のおがくずよりも小さい。あなたはそれとおなじ秤で裁かれるだろうというのです。人を裁く前に自分に胸をあて、相手を攻撃するその罪が、果たして自分にもないだろうかと振り返る、そのような習慣を身につけたいと今日も願っております。