みことば

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7月22日 金戸 清高 先生

チャプレン 崔 大凡

[2024-07-22]

フィリピの信徒への手紙2:5

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。(聖書協会共同訳)

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(新共同訳)

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。(口語訳)

汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。(文語訳)

そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わずかえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめすべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。(聖書協会共同訳)

この故に若しキリストによる勧、愛による慰安、御霊の交際、また憐憫と慈悲とあらば、なんぢら念を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦を充しめよ。何事にまれ、徒党また虚栄のためにすな、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりとせよ。おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。

汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。(即ち彼は神の貌(かたち)にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんと思はず、反つて己を空しうし僕の貌をとりて人の如くなれり。既に人の状(さま)にて現れ、己を卑(ひく)うして死に至るまで、十字架の死に至るまで順ひ給へり。この故に神は彼を高く上げて、之に諸般(もろもろ)の名にまさる名を賜ひたり。これ天に在るもの、地に在るもの、地の下にあるもの、悉とくイエスの名によりて膝を屈め、且もろもろの舌の「イエス・キリストは主なり」と言ひあらはして、栄光を父なる神に帰せん為なり)(文語訳)

今年からチャペルで朗読される聖書は「聖書協会共同訳」が使われています。私は教会では新共同訳、つまり去年まで大学で使われていた聖書と同じものを使っていますが、個人的には「新改訳」という聖書を使っています。私はこれまで教会では口語訳から新改訳、そして新共同訳と種の翻訳を読んできましたが今回大学で用いられている共同訳と今個人で読んでいる新改訳と、合わせれば種類の聖書を読んでいることになります。もう一つ、文語訳というのがありまして、伝わりにくいかもしれませんがとても格調の高い文章になっています。

ご存じのように聖書の言語は、旧約はヘブライ語、新約はギリシャ語です。中世カトリック教会ではラテン語のものを扱っていたようで、聖書が私たちに身近になったのは世紀の宗教改革以降、ルターが聖書をドイツ語に翻訳し当時出始めた新しい印刷技術、グーテンベルグ印刷機、これは天正少年使節団が持って帰り、天草版伊曾保物語などがこれによって印刷されたりもしていますが、そのグーテンベルグ印刷機によって広められたのでした。以後聖書は様々な言語に翻訳されて行きました。英語訳の歴史も興味深いのですがそれは授業で崔先生に聞いて下さい。

で、私は教会に通い始めてからそろそろ年になるのですが、その時々で色んな訳の聖書の言葉に心を動かされてきました。でも聖書は翻訳ですから、どの訳が一番元の言語に近いのか、よく分からないので、

たとえば自分はこれが好きなのだけれど、果たしてそれは元々のメッセージを忠実に再現しているのか、自信が持てないでいました。先ほど読んでいただいたフィリピ:もそうで、私自身は文語訳、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」が、個人的には一番好きな翻訳なのです。それが口語訳では「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」となり、新共同訳は聖書協会共同訳と同じ「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」となっています。なんだかよく分からないのです。「キリストの心を心とする」とは大分違っているように思えるのです。

もうか月前になりますが、月日の午後、草葉町教会で「聖書協会共同訳セミナー・熊本」という講習会がありまして、講師は同志社大学の石川立先生でした。今回の共同訳がどのようにして進められたか、先ほどからお話ししている経緯からとても興味がありまして行ってきました。ちょうど中高の栗原先生も会場でお会いしました。

今回の翻訳では、実は私の知人、国文学が専門なのですが、その人も翻訳事業に携わったということで、おそらく原点の主旨とともに日本語としての美しさも考慮されているのだろうと予測していましたが概ねその通りでした。たとえば詩編篇「憩いの水のほとりに伴い」が「憩いの汀に伴われる」と、訳としては間に戻っているけれど日本語としての抒情が詩編の言語らしく訳されています。あるいはヨハネ章「光は闇の中で輝いている。そして闇はこれを理解しなかった」は前の訳「闇はこれに勝たなかった」に戻りました。こちらの方が個人的にしっくりきます。一方神がモーセに教えたご自身の名を「私はある」から「私はいる」に変えるなど、斬新な訳もあったりします。

その他色々な説明もあり、また私個人は、これは前のがいいとか今回の翻訳については色々思うところも多いのですが、講演の最後に先生が言ってくださったのが、聖書の言葉は自分がいいと思った訳が一番良いのだということでした。これは翻訳でしか聖書を読むことができない私たちにとって、とても励みになる言

葉でした。だから私も、自分的にしっくりくる訳で憶えていこうと思いを新たにしたのでした。

さて今日の聖書の箇所に戻ります。「互いにこのことを心がけなさい」の「このこと」は何をさすのでしょうか? 多くの注解書が、この章節は前の文章つまり節から節までの部分と後の文章すなわち節から節までの部分のつなぎとなる分なのだと指摘します。文語訳では節の次に「即ち」という接続詞が入りますのでおそらく節以降を指すのだろうとは予想していましたが、念のため私が所属している教会の牧師に確認してみました。すぐに以下の回答がありました。

ギリシャ語原文(ネストレ版)を直訳すると

5節から新しい段落に入り、節から節がひとつの文です。

(また節から節も一つの文です。)

このことを 思いとして抱け、あなたがたの間で

トゥート フロネイテ エン ヒューミン

それは また キリストイエスにおいても (ある)

ホ カイ エン キリストゥ― イエスース

この後、カンマで6節(最初の語はホース:関係代名詞→「即ち」と訳せます)とつながります。

これを「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。6節即ち・・」と訳したのは

名訳と思います。

というのです。「キリストの心を心とする」とはすなわち、「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わずかえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」を指します。キリストは神と対等の立場にありながら人となってこの世に来られ、死に至るまで神に従順だった、つまり神へのへりくだりの心を、私たちも心としなさい、そういう意味だというのです。

「キリストの心を心とせよ」は多くの人に親しまれて来た言い回しです。いくつかのキリスト教学校はこれを学院聖句に選んでもいます。西先生の母校でもあります三鷹のルーテル学院大学もこれを標語としています。実は本学もこの聖句とは無縁ではありません。以下は年、九州女学院の献堂式、つまり完成した校舎を神のために用いるための儀式、礼拝ですね。その時のエカード先生の言葉です。

実に、キリスト教教育の勉むるところは、生徒を向上発達せしめ、彼らをして,真理を知ることを知識の絶頂とし、信仰をそのもっとも大切なる態度となし、祈祷をそのもっとも強い習慣とし、キリストを模範として、奉仕をすべての技能の最高点とするような人とならしむるのにほかならぬのでございます。(中略)言葉を変えて申しますならば、(中略)キリストの心を心とし、その御足跡を踏んでいく人物を養成することでございます。年月日午後時 九州女学院献堂式にてエカード先生の挨拶より

「感恩奉仕」という標語はこの後何年かして出来ました。その精神の根底にはこの、「汝らキリストの心を心とせよ」というパウロの言葉があるのです。このことをぜひ皆さん心にとめていただきたいと願います。