11月11日 金戸 清高 先生
[2024-11-11]
11 月 11 日チャペルスピーチ
ヨブ 13:15〜16
彼われを殺すとも我は彼に依頼(よりたの)まん 惟われは吾道を彼の前に明かにせんとす。彼また終に我拯救(すくひ)とならん邪曲(よこしま)なる者は彼の前にいたること能はざればなり(文語訳)
内村鑑三はこれを誤訳とし、「彼れ我を殺すとも我は彼を待ち望まず」と改訳すべきであるとした。すなわち、「我は飽くまでわが無罪を神に訴えん、そのため彼に殺さるるに至るも敢えて厭わず」となるという。
見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望み、/なおも私の道を神の御前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。/神を敬わない者は、御前に出ることはできない。(新改訳2017)
見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を/彼の前に守り抜こう。
これこそわたしの救となる。神を信じない者は、/神の前に出ることができないからだ。(口語訳)
神が私を殺すと言うなら/私は何も望まず/ただ、私の道を神の前に訴えよう。私にとって、そのことが救いだ。/神を敬わない者は/神の前に出ることができないからだ。(聖書協会共同訳)
そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。(マソラ本文による)
このわたしをこそ/神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら/御前に出るはずはないではないか。(新共同訳)
こうなったら、いのちをかけてもいい。
思っていることを洗いざらいしゃべろう。
そのため神に殺されるなら、それでもいい。
たとえ殺されても、私はやめない。
私が不敬虔な者でないので、
神の前から即刻立ち退きを命じられないことが、
せめてもの頼みの綱だ。(リビングバイブル)
ちょうど 8 日前になります。西日本が大雨になった土曜日の朝、私はある講演を聴くため、広島大学(東広島キャンパスは、通常は西条駅から更にバスに乗るのです)に向かっていました。早い時間の新幹線に乗ったので広島までは無事に着いたのですが在来線が全面ストップで、仕方なく東広島までそのまま新幹線で向かい、そこからタクシーで会場に向かいました。その日はタクシーもなかなかつかまらず、その後新幹線もかなり遅れて予定より相当時間がかかってしまいました。おまけに聴きたかった講師は急病で代役によるものでした。まあ、大変だったのです。
洪水や地震、津波など、ここ数年日本のあちこちで災害が起こり、少なからぬ被害があります。その度に私は思うのです。これは神の意志なのかと。18 世紀に起きたリスボン地震のことを昨年も話したのですが今ここで少し振り返っておきます。
18 世紀の話です。1755 年 11 月 1 日、リスボンにて大きな地震があり、6 万人以上の死者を出すという災害がありました。「リスボン地震」として今も語り継がれています。問題はこの日が全聖徒の日というキリスト教の記念日であったこと、そしてこの災害がキリスト教国で発生したことで、神はなぜこんな災害を負わせたのかと、当時の人々は大いに悩んだのです。ライプニッツも一生懸命考えました。彼の結論はこういうことでした。つまり人間は神の計画のすべてを理解していないので様々な場面で不平不満を言うが、全知全能の神はすべてを熟慮して、ベストな選択をしたのだ、と。それでも苦しい説明で、ルソーがこれを批判します。「神がかつて果たした役割を、これからは人間が、あるいは人間の理性が果たさなくてはならない」と。ヨーロッパの知識人は理不尽な大災害に対して明らかに激しい動揺を感じ迷っていたようです。(この話は2011 年ベストセラーになった新書本「ふしぎなキリスト教」の続編、「やっぱりふしぎなキスト教」の冒頭部に書かれています。)
広島に行った話をしましたが、その時持って行ったのが内村鑑三の「ヨブ記講演」だったのです。旧約聖書の中でも「ヨブ記」はとても難しい書物だと思います。ですから私も礼拝ではあまり不用意には取り上げないようにしていたのでが、今回思い切って話すことにしました。神はなぜ自然災害をもたらすのかという問いと、正しい人がなぜここまで悲惨な目に遭わなければならないのかという問いかけとは、おそらく深いところで響き合っているように思ったからです。
ヨブ記について、ここで深く話す時間はありませんのでみなさんはキリスト教の授業で習ったことを思い出しながら聞いていただきたいのです。ただ、ヨブ記を要約するとたとえばヤコブの手紙(5:11)にあるように、ヨブは神から試練を課せられて酷い苦しみに遭ったが、よく忍耐し、最後には神から償いを受けたではないか。だから諸君、忍耐して主を待つことにしよう。というのはとても表面的な理解のように思われます。「ヨブは彼(自分)に下された苦難を、神の不当な行為ではないかと激しく抗議し、「謙虚になれ」と語る友人たちの勧告を無視して、彼らに容赦のない批判を浴びせている。その反抗者ヨブの姿が、ヤコブの手紙の著者の視野に入っていない」(並木浩一)という研究家もいるのです。
さて家族にも富にも恵まれて裕福な生活をしていたヨブが、あっという間に子ども達や財産を奪われ、また全身を皮膚病に見舞われかゆみに耐えながら、神に不平不満をぶちまけるのです。友人たちが今のヨブの境遇はあなたや子ども達が罪を犯した結果だから早く神にあやまりなさいなどと言うのですがヨブはそれを受け入れようとしません。今日読みました聖句はその中の一節なのです。プリントを御覧ください。
実は聖書によってこれだけの違いがあります。おそらく訳の違いというより、元となったテキストの違いもあるように思います。2 年生以上の皆さんがお持ちの聖書、そして今年度から礼拝で朗読されている共同訳聖書、色々あって、自分はどれに従ったらいいか、よくわかりません。
私が好きなのは「新改訳2017」ですが、リビングバイブルはその対極をなす翻訳と言えるかもしれません。みなさんは自分が一番しっくり来る訳を受け入れてくださって構わないと思います。私は 7 月のスピーチでそのような話をしました。
一つ教えられるのは、私たちはどうしていいか解らなくなった時、あるいは自分の身に不条理なことが起きた時、遠慮なく神様に怒りをぶつけても構わないのだということです。神は思っています。むしろ自分に悩みをぶつけてほしいと。そうすれば人知を超えた神の平安がキリスト・イエスにあってあなたを守るだろうとパウロは言っています。
今もなお日本の、いや世界の各地で悲しんでいる人、苦しんでいる人、孤独な人、貧困にある人がいます。神も仏もあるものかと叫んでいる人もいることでしょう。でも、そのような苦しみを、一度神にぶつけてみてはいかがでしょうか? 私はそのような人たちの上に神の平安があることを信じています。
今日一日、神様の平安がみなさまの上に豊かにありますように
ヨブ 13:15〜16
彼われを殺すとも我は彼に依頼(よりたの)まん 惟われは吾道を彼の前に明かにせんとす。彼また終に我拯救(すくひ)とならん邪曲(よこしま)なる者は彼の前にいたること能はざればなり(文語訳)
内村鑑三はこれを誤訳とし、「彼れ我を殺すとも我は彼を待ち望まず」と改訳すべきであるとした。すなわち、「我は飽くまでわが無罪を神に訴えん、そのため彼に殺さるるに至るも敢えて厭わず」となるという。
見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望み、/なおも私の道を神の御前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。/神を敬わない者は、御前に出ることはできない。(新改訳2017)
見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を/彼の前に守り抜こう。
これこそわたしの救となる。神を信じない者は、/神の前に出ることができないからだ。(口語訳)
神が私を殺すと言うなら/私は何も望まず/ただ、私の道を神の前に訴えよう。私にとって、そのことが救いだ。/神を敬わない者は/神の前に出ることができないからだ。(聖書協会共同訳)
そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。(マソラ本文による)
このわたしをこそ/神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら/御前に出るはずはないではないか。(新共同訳)
こうなったら、いのちをかけてもいい。
思っていることを洗いざらいしゃべろう。
そのため神に殺されるなら、それでもいい。
たとえ殺されても、私はやめない。
私が不敬虔な者でないので、
神の前から即刻立ち退きを命じられないことが、
せめてもの頼みの綱だ。(リビングバイブル)
ちょうど 8 日前になります。西日本が大雨になった土曜日の朝、私はある講演を聴くため、広島大学(東広島キャンパスは、通常は西条駅から更にバスに乗るのです)に向かっていました。早い時間の新幹線に乗ったので広島までは無事に着いたのですが在来線が全面ストップで、仕方なく東広島までそのまま新幹線で向かい、そこからタクシーで会場に向かいました。その日はタクシーもなかなかつかまらず、その後新幹線もかなり遅れて予定より相当時間がかかってしまいました。おまけに聴きたかった講師は急病で代役によるものでした。まあ、大変だったのです。
洪水や地震、津波など、ここ数年日本のあちこちで災害が起こり、少なからぬ被害があります。その度に私は思うのです。これは神の意志なのかと。18 世紀に起きたリスボン地震のことを昨年も話したのですが今ここで少し振り返っておきます。
18 世紀の話です。1755 年 11 月 1 日、リスボンにて大きな地震があり、6 万人以上の死者を出すという災害がありました。「リスボン地震」として今も語り継がれています。問題はこの日が全聖徒の日というキリスト教の記念日であったこと、そしてこの災害がキリスト教国で発生したことで、神はなぜこんな災害を負わせたのかと、当時の人々は大いに悩んだのです。ライプニッツも一生懸命考えました。彼の結論はこういうことでした。つまり人間は神の計画のすべてを理解していないので様々な場面で不平不満を言うが、全知全能の神はすべてを熟慮して、ベストな選択をしたのだ、と。それでも苦しい説明で、ルソーがこれを批判します。「神がかつて果たした役割を、これからは人間が、あるいは人間の理性が果たさなくてはならない」と。ヨーロッパの知識人は理不尽な大災害に対して明らかに激しい動揺を感じ迷っていたようです。(この話は2011 年ベストセラーになった新書本「ふしぎなキリスト教」の続編、「やっぱりふしぎなキスト教」の冒頭部に書かれています。)
広島に行った話をしましたが、その時持って行ったのが内村鑑三の「ヨブ記講演」だったのです。旧約聖書の中でも「ヨブ記」はとても難しい書物だと思います。ですから私も礼拝ではあまり不用意には取り上げないようにしていたのでが、今回思い切って話すことにしました。神はなぜ自然災害をもたらすのかという問いと、正しい人がなぜここまで悲惨な目に遭わなければならないのかという問いかけとは、おそらく深いところで響き合っているように思ったからです。
ヨブ記について、ここで深く話す時間はありませんのでみなさんはキリスト教の授業で習ったことを思い出しながら聞いていただきたいのです。ただ、ヨブ記を要約するとたとえばヤコブの手紙(5:11)にあるように、ヨブは神から試練を課せられて酷い苦しみに遭ったが、よく忍耐し、最後には神から償いを受けたではないか。だから諸君、忍耐して主を待つことにしよう。というのはとても表面的な理解のように思われます。「ヨブは彼(自分)に下された苦難を、神の不当な行為ではないかと激しく抗議し、「謙虚になれ」と語る友人たちの勧告を無視して、彼らに容赦のない批判を浴びせている。その反抗者ヨブの姿が、ヤコブの手紙の著者の視野に入っていない」(並木浩一)という研究家もいるのです。
さて家族にも富にも恵まれて裕福な生活をしていたヨブが、あっという間に子ども達や財産を奪われ、また全身を皮膚病に見舞われかゆみに耐えながら、神に不平不満をぶちまけるのです。友人たちが今のヨブの境遇はあなたや子ども達が罪を犯した結果だから早く神にあやまりなさいなどと言うのですがヨブはそれを受け入れようとしません。今日読みました聖句はその中の一節なのです。プリントを御覧ください。
実は聖書によってこれだけの違いがあります。おそらく訳の違いというより、元となったテキストの違いもあるように思います。2 年生以上の皆さんがお持ちの聖書、そして今年度から礼拝で朗読されている共同訳聖書、色々あって、自分はどれに従ったらいいか、よくわかりません。
私が好きなのは「新改訳2017」ですが、リビングバイブルはその対極をなす翻訳と言えるかもしれません。みなさんは自分が一番しっくり来る訳を受け入れてくださって構わないと思います。私は 7 月のスピーチでそのような話をしました。
一つ教えられるのは、私たちはどうしていいか解らなくなった時、あるいは自分の身に不条理なことが起きた時、遠慮なく神様に怒りをぶつけても構わないのだということです。神は思っています。むしろ自分に悩みをぶつけてほしいと。そうすれば人知を超えた神の平安がキリスト・イエスにあってあなたを守るだろうとパウロは言っています。
今もなお日本の、いや世界の各地で悲しんでいる人、苦しんでいる人、孤独な人、貧困にある人がいます。神も仏もあるものかと叫んでいる人もいることでしょう。でも、そのような苦しみを、一度神にぶつけてみてはいかがでしょうか? 私はそのような人たちの上に神の平安があることを信じています。
今日一日、神様の平安がみなさまの上に豊かにありますように