みことば

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1月20日 金戸 清高 先生

チャプレン 崔 大凡

[2025-01-20]

1月20日チャペル

第1コリント13:1〜3

1:コリントの信徒への手紙一/ 13章 01節

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。

1月ももう下旬で、今年度のチャペルももう終わりになります。4年生、今日いましたら私の最後のメッセージになります。その意味でも今日はできるだけ大事なお話をしたいと思って準備してきました。

昨年末から、いろいろな出来事がありますが、特に昨年11月の兵庫県知事選、私は兵庫県民だったのでそれなりの関心をもって成り行きを見守っていました。結果はみなさんがご存じの通り、とても驚きました。前知事で、パワハラで自殺者を出した斉藤元彦氏が再選を果たしたのです。色々な原因があったでしょうが既存の報道よりもSNS等の投稿を信じた有権者が多かったということ、別の立候補者が自身の当選を目指さず、斉藤氏の後方支援をしたこともあったでしょう。あるいは次点となった稲村和美さんのXアカウントが虚偽通報で凍結されたり、かなりあくどい妨害があったりもしました。あるいは当選後も広報を一手に引き受けた女性社長の発言により重大な選挙違反があったことも指摘されています。

私が危険だと思ったのはSNSの投稿です。周りから罵倒されながら雨の中ぽつんと淋しそうに立っている候補を映し出す。その動画を見て、可哀想だな、この人そんなに悪い人なのかな、色々思う人が出て来ます。ここまで否定されるのはやりすぎなのでは、もしかしたらこの人こそ被害者なのでは、じゃ、私は対立候補よりも斉藤さんを応援しよう、そういった感情から斉藤氏がだんだん盛り返してくる。SNSでも斉藤氏を支援するサイトが出てくる。こういう人はインターネットのフィルターバブル現象で、自分の興味のある記事

ばかりが検索されてくる。やはり自分は正しいのだ。斉藤さんを応援するしかない。こんな風に気持ちが固まってくる。これは私の専門のナラトロジー、物語の構造論からしてもありうることで、被抑圧者がいつかは報われるような物語構造を人々は求めてしまう。物語と現実は虚実皮膜で、ありそうな嘘なのですが、虚と実の区別が曖昧になって物語世界を現実と思いこんでしまうのです。これは危険な傾向です。以前は日本人はこうしたうそとまことの世界を区別できていたのに、今は出来なくなっている。

これは日本ばかりではなく世界的にも同じで、やはり昨年12月のアメリカ大統領選挙です。大方はハリス氏優勢と報じられながら、結果はまさかのトランプ氏の返り咲きで、同様にアメリカ人は一体何を考えているのだと思ってしまいました。前回の選挙結果を認めず議会襲撃を先導し死者まで出した。女性問題もありました。いろいろあったのに当選してしまう。ウクライナ戦争を1日で終わらせるとか(これは最近6か月はかかると言い直しましたが)、移民たちはペットを食うとか、できもしないことを良い、選挙のためにはデマも流す、環境問題に目を向けず、化石燃料を「掘りまくれ」と先導する。当選してからもカナダやグリーンランドはアメリカ領になるのがいいとかメキシコ湾をアメリカ湾に名称変更しろとか、荒唐無稽な発言が国民に受けるのでしょうね。MAGA(Make America Great Again)の標語に支持者が集まる。アメリカの、いや世界の民主主義は終わりを遂げるのかもしれません。DEI(多様性、公平性、包摂性)といった世界正義がアメリカの大きな企業で縮小されようとしているのも大きな問題です。一方日本は自民党が過半数割れをし、おそらくこれからは丁寧な合意形成がなされると思います。ところで石破さんはクリスチャンなので私は個人的にはその辺をがんばっていただきたいと思っているところです。

ここまで日本や世界の動きを見たとき、あるいは過剰な情報社会にあって、私たちは何が正しくて何が間違っているか、既存の報道ではわからなくなってきてしまっている、それはゆゆしき事態だと思わざるをえないのです。

ある方が言っていました。たとえばロシアとウクライナ、どちらも自分たちが正義と思っている。それはイスラエルとパレスチナも同じなのかもしれませんが、正義とはそうした相対的なものなのでしょうか。普遍的な真理や正義は、この世界に存在しない。そうかもしれません。でも、私たちは自分たちの行動原理として、自分は何によって立つのか、自分で見定めなければならないのです。これから社会に旅立って行かれる4年生には喫緊の課題ですが、それは1年生から3年生の在学生のみなさんにとっても同じなのです。教員もです。誰かが考えてくれるだろうという人任せでは世の中、どっちに転んでも文句は言えないのです。私たちはこれから自分に迫ってくる課題に対し、どうすれば真偽を見極め、行動することができるだろう。

みなさんはキリスト教学校で学んでいます。おそらく4年間で、好むと好まざると、キリスト教的な考え方はみなさんの行動基準に影響を及ぼすでしょうが、ただ一つ大切なこと、いろんな選択が迫られる中で、そこに愛があるのか、なんだかCMのセリフみたいですが、そこに愛があるのかどうかを、みなさんがこれからの判断基準にされるといいと思っています。

AかBか、そのどちらが相手を思いやることになるのか、果たしてこの選択が人々を幸せにするのだろうか、そんなことが、きっとみなさんを正しい判断に導いてくれるでしょう。

今日の聖句、とても有名なパウロの「愛の賛歌」といわれる部分の一節です。「愛なくば益なし」たとえどんな正しいことを自分がしたとしても、そこに愛がなければ何の意味もないのだとパウロは言うのです。あるいは別のところで、「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」とも言われています。今日の聖書の箇所はこれからの皆さんが様々な選択や判断をするときの大きな助けとなるでしょう。