みことば

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2022年7月27日礼拝 み言葉

チャプレン 崔 大凡

[2022-09-11]

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(マタイによる福音書5章13~16節)

 「地の塩」と「世の光」。端的に解釈して、人が生きるために必ず必要なものです。
イエスはご自分に従う弟子たちに向けて、「必要な存在」、「価値ある存在」と宣言された言葉です。
当時の人々からの目からすれば、世の人々と比べてどの要素からも、特別なものは何も見当たらないような弟子たちでした。しかしイエスは彼らを呼びかけ、従わせ、「価値ある存在」としての約束と祝福を与えられたのです。それは人からの目線ではなく、神の目線でもあります。  確かに約束であり、祝福ですが、この言葉をただの自己中心的な利己心や虚栄心から捉えたら大間違いです。イエスは弟子たちがこれから世に重んじられる人になるという、彼らのための約束を与えたのではなく、世に役立つ人になるから「地の塩」、「世の光」と言われたのです。先ほどの本文にもあるように、ちゃんと塩らしい味、「塩気」が付いているから「塩」であり、人々に「輝き」を届けられるから「光」であります。塩としての「塩気」、光としての「輝き」がたとえているものは、この後、イエスが弟子たちに命じる「善」、神の前での正しい生き方、良き働きです。神と隣人を愛し、仕えるという「善」です。
 イエスの弟子たちは、最終的にはイエスが約束したような存在になっていきました。特に意志や能力が優れている方ではなかったようで、途中で躓いたり、肝心な時にイエスに背いたりしたストーリーも聖書に書かれています。でも、彼らはキリスト教会の歴史、また世界の歴史にも響く足跡を残しました。主イエスが共にいてくださったからです。神の導きがあったからです。「地の塩、世の光」にさせてくださる主の助けと働きが、主に従おうとする弟子たちの上にあったからです。この世界で「塩」のような価値ある存在、「光」のように輝く存在になるイエスの祝福は、今も、神の働きを信じて従おうとする人々に有効です。神はあなたを通して、また成長する子どもたちを通して、世界に良き働きをなし、人々に仕えさせようとしておられます。