5月28日 金戸 清高 先生
[2025-05-29]
「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって ほしい。熱くも冷たくもなく、生温いので、私はあなたを口から吐き出そう。
週末私は妻の滞在する伊勢に行っていました。月曜日にはお休みをもらってできるだけ長く妻と過ごすよう にしていました。そこへメールが届き、和田チャプレンに葬式が入って急遽、だれか水曜日の礼拝担当者を 代わってほしいとのこと。私はチャペル関係、教会関係の仕事はできるだけ断らないことを信条にしている のですが、さすがに急なので躊躇いましたが、とりあえず引き受ける返事をしました。当初6月2日の予定 で、既に聖書も決まっていたのでなんとかなるだろうと。聞けば本学の旧職員である黒羽茂子先生の葬儀で あったと知り、生前とても親しくさせていただいていましたので、引き受けてよかったなと思っています。
1 年生のみなさんはキリスト教学校に入学して2か月が終わろうとしています。2年生以上の方はもう既に 本学の校風を受け継ぎ、ルーテル生らしい風格を身につけていますね。 さて、そうしたみなさんにお尋ねしてみたいのですが、本学のキリスト教教育について、どんな感想を持っ ていますか。好意的、反発、どちらかといえば好意的、反感的、その中間つまりどちらでもない、いろんな 答えが出てくると思いますが、今日の聖句、熱いか冷たいか、そのどちらかであってほしいと神は言うので す。熱いのは結構、冷たいのはむしろよくないのではないか、どちらでもないのは、冷たくはないのだから むしろ望ましいのではないか、そのように思ったりもしませんか。
たとえば、礼拝で今日もろうそくを灯す時、私たちは十字架に一礼しましたよね。キリスト教は偶像崇拝を 禁止していますが、十字架は偶像じゃないですか? 少なくとも神ではないですね。これっておかしいので は? 私は初めてこの学校に来た時、チャプレンたちが十字架に一礼するのを観て、とても違和感がありま した。まるで神棚や仏壇を拝むように、十字架ならゆるされるのか。当時のチャプレンに訊ねてみたことが ありました。そしたらその答えは、拝んでいるのではなく、十字架の前に頭を垂れて短く祈っていると。た しかに当時のチャプレンはそうしておられたようでした。でも、その方以外のチャプレンは、少なくとも私 にとっては一礼しているように見えますし、私は今も学生に「一礼しましょう」と言っています。もう、馴 れてしまったのかもしれません。
このように、私はキリスト教に入信する前後は、様々な疑問を牧師や先輩の信徒の方にぶつけていました。 そのたびにきちんと受け止めて答えてくださる方がいたのは幸いでした。たとえばこれも若いとき、いわゆ るフェミニズム批評が聖書研究にも導入されていましたが、私の属する教会はかなり保守的で、女性牧師は なかなか認められていませんでした。ルター派はかなり前から女性教職を認めていましたが、たとえばカト リックなどは認めていないのです。最近ではトランプ大統領が多様性政策に反対し、この世界には男性と女 性しかいないと言い、それが多くの保守的な人に受ける。キリスト教はジェンダーバイアスかなり高いよね と、そう思いませんか。
私はそうした疑問に対し、キリスト教会はきちんと現代のニーズに沿って答えるべきだと思っています。現 に最近になって LGBTQ と聖書について書かれた本や、聖書のクイア批評なども見かけるようになりまし た。神がエチオピアの宦官を導かれたとか、復活のイエスがペテロに「あなたは私を愛するか」と訊ねたり、 聖書には私たちが考えている以上に開かれた思想が書かれていると最近思うようになりました。「互いに愛 しなさい」といってもこれは男と女の仲をさしているわけではもちろんありませんよね。
みなさんも、聖書について、キリスト教について、様々な素朴な疑問をぶつけてもらいたいと思っています。 神は、「さあ、論じ合おうではないか」(イザヤ1:18)と言われます。好意的でも批判的でもいい。ぜひ疑 問をぶつけてほしい。
今日の聖書は神がラオデキアの教会に語った言葉とされています。ラオディキア(Laodikeila Laodicia)はト ルコ(アナトリア半島)の中央から西の方、エフェソの東150キロ、コロサイとヒエラポリスの近くにあっ たようです。ヒエラポリス温泉が湧く保養地でもありました。ただこの温泉は飲料には適さない石灰質のア ルカリ温泉であったようです。臭いもかなりひどかったようです。
私たちは温泉が好きですが、熱すぎると入れないし、冷たすぎても入りたくないですね。ちょうどいい加減 がいいです。けれども、熱くも冷たくもないものがすべてちょうどいいわけではないですよね。うどんのだ し汁も、ぬるかったらおいしくない。水筒のお茶も氷がとけてしまったらおいしくない。なまぬるくてウエ ッとくるものもけっこう多いですし、今日の聖書の比喩はみなさんにも受け入れやすいのではないでしょう か。
主が手厳しく叱責しておられるのは無関心の態度なのだとある注解書に書いてありました。マザー・テレサ は「愛の反対は憎しみではなく無関心である」と言いました。西先生が学生時代チャペルで「私は神様を信 じません」と喋ったことを仰っていましたね。「ちいろば先生」と言われみんなに親しまれた榎本保郎という 牧師は、同志社の神学部に入学してすぐ、「おまえらみんな偽善者だ」と叫んで逃亡したと言われています。 神様はここで、いっそのこと「自分が嫌いだ」と言ってもいいと、そのようにさえおっしゃってもいるので すね。ただ、無関心でいてほしくない。どうか皆さんも、本学の中心となるキリスト教について、熱いか冷 たいか、どちらかでいてほしいと願います。