7月2日 西林 佳夫さん
[2025-07-11]
ヨハネによる福音書:14:27
私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
神様との出会い、神様からいただいた恵み、それを人に伝えることをキリスト教会では『証し』と呼びます。今日は、クリスチャンスクールであるこの学校に導かれ、この礼拝に集められた皆さんに、わたしが学生の皆さんとほぼ同世代のときに、キリスト教を強く意識するようになった頃の証しをしたいとおもいます。今日は梅雨が明けて蒸し暑い盛りですが、少しの間だけ、30年ほど前のクリスマスの時期に思いを巡らせていただけたらと思います。
私とキリスト教のつながりは、120年以上前の大正時代にさかのぼります。
母方は、私から見て4世代前、ひいひい爺さんがアメリカに移民した日系人の家系です。西海岸のシアトル近郊の村に移民し、荒れた土地を切り開いて農業を営んでいました。第2次世界大戦中は日系人への風当たりも強くなり、一時、収容所で生活したこともあったようです。そんな中、地域のコミュニティに溶け込む手段が地元のキリスト教会に通うことでした。曾祖父を頼って留学した母は現地で洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
わたしは、ここから約20Kmの田舎町、御船町の山のふもとで育ちました。
祖父は7人兄弟の末っ子ですが、日本の家族との関係を保つために祖父だけ日本に帰り、両親や兄弟と離れて過ごすことになりました。そのときの恨み、悲しみからか、キリスト教には良い印象を持っていなかったような気がします。
私は母の影響で、小学生の頃は熊本県内外のいろんな教会に日曜日のたびにたたき起こされて連れていかれました。母はアメリカにいた当時の教会と似た雰囲気の教会を探していたようですが、なかなか見つからなかったようです。当時の学校は、土曜日に午前中だけ授業があり、1日しっかり休めるのは日曜日だけ。みんなは遊んでいるのにどうして自分だけ朝早くから教会に行かないといけないのだろうと、不満のやり場のない幼少時代を過ごしました。
転機になったのは、私が中学2年のころです。母が隣町の甲佐町にキリスト教会があることを知りました。とても小さな教会です。礼拝に集まるのは10人ほど。どんなに多くても15名ほど。アメリカ人の牧師がいて、た どたどしいけど力強い日本語での説教を通して神様の言葉を聞き、奥さまが弾くオルガンで讃美歌を歌います。ときには、水前寺にあった牧師の家に招かれ、珍しいアメリカのお菓子を食べながら英会話を教わり、普段の田舎町での生活とは違う穏やかで、刺激的でもある空気に満たされていることに、心地よさを感じるようになりました。その教会が「日本福音ルーテル甲佐教会」で、牧師が九州女学院、九州ルーテル学院の第8代院長のエリス牧師でした。
そして、高校に入学した私は、日本にもたくさんのクリスチャンスクールがあることを知り、自然と大学はクリスチャンスクールで勉強したいと思うようになりました。受験勉強にいそしむ中、エリス牧師から多くのみ言葉を聞き、促され、高校3年生のクリスマスイブ礼拝、100本ほどのろうそくに囲まれて、私は洗礼を受け、クリスチャンになりました。
一見、素敵な光景が浮かぶでしょう。ロマンチックな夜になることを信じて疑いませんでした。でも、その日は、私にとっては全く逆の思い出になってしまいました。それまでの人生で5本の指に入るほど体調が最悪な一日でした。まず、風邪をひいていたこと。朝から咳が止まらず、頭がぼーっとします。加えて礼拝中には持病の喘息がひどくなっていきます。それでも、何とか礼拝を終わるまでは耐えようと、やっとの思いで洗礼を受けました。当時の写真を見ると髪はぼさぼさ、目はうつろ。完全に風邪をこじらせてしまいました。帰宅すると呼吸困難になり救急病院に搬送され、大学病院に入院することとなってしまいました。私の頭の中は目前に迫った大学受験のことでいっぱいです。そして、試験が受けられず浪人生活を送る悪夢にうなされました。
症状が少し和らいだある日、高校の同級生が見舞いに来てくれました。他愛もない会話を楽しむ中、友人の一人がこんな言葉を私に投げかけました。「せっかく洗礼うけてクリスチャンになったのに、次の日に病院に運ばれて入院なんてご利益ないね。入試の競争相手が一人減ったよ。」彼も同じ大学を受験するいわばライバルでした。その瞬間、わたしは時が止まったように感じ、一晩中洗礼を受けたことの意味を考えました。そして、大事なことに気づかされました。もちろん大学入試に合格することを神頼みするために教会に通っていたわけではありません。私は、何かのご利益を得るために洗礼を受けたのではないんだ。求めているのは、どんな状況であれ、穏やかに生きていくこと、確かに導かれる神のあたたかさと、心の平安を感じて生きていくことなんじゃないかと。
それからの入院生活では、不思議と受験への焦りはほぼ消え去り、逆に都会で勉強することへの希望と楽しみが沸き上がるのを感じました。
30年前、洗礼を受けたその礼拝で歌った讃美歌の一つが、先ほど皆さんと歌った493番です。3節にこのような歌詞があります。「世の友 われらを 捨て去るときも 祈りに応えて なぐさめられる」我々はいつも同じように穏やかに生きていくことはできません。でも、良い時も悪い時もどんなときも神さまが恵み深く見守ってくださり、そして、神さまのもとにあって平安がもたらされることを信じて日々歩んでいきたいものです。
短くお祈りします。
神さま。あなたのもとこの学院に集められたことに感謝いたします。私たちは様々な困難に打ちのめされます。ささいなことで心は揺れ動きます。それでも、あなたが絶えず私たちに、みことばをもって、温かく見守って下さること信じて歩んでいけるよう導いてください。