みことば

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9月30日 金戸 清高 先生

チャプレン 和田 憲明

[2025-10-14]

聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。/あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)


今日は少しオカルチックな話から始めます。私が高校生の頃、漫画家のつのだじろうさん、ちょっと古いですがあの「メリー・ジェーン」を歌ったミュージシャンの「つのだ☆ひろ」さんは弟にあたりますが、つのだじろうさんが「うしろの百太郎」という漫画を書いておられ、多分少年マガジンだったと思いますが、ドキドキしながら読んでいました。主人公が一太郎が悪霊やなんかにとりつかれそうになったとき、彼の守護霊である百太郎がきわどい所を助けてくれる、そんなストーリーでした。1975年前後にはたとえば「ノストラダムスの大予言」や「狐狗狸さん」が流行っていました。時代は高度経済成長が頭打ちになり、ドルショック、オイルショックが相まって世情が不安定になっていた時です。そんな時ですからこうした超自然現象への興味などが広がっていくのでしょう。現代も実は令和の占いブームとかいうらしく、対立と分断、グローバリズムから自国中心主義へと傾いていく現代もその頃と似ているのかもしれません。ちょうど数日前、JICAがアフリカ・ホームタウン認定交流事業を撤回するという報道がありましたが、理由はSNS等で広がったフェイクニュースにより、自治体への抗議電話やメールが殺到し、自治体の負担が広がったことなのだそうです。まるで100年前、関東大震災を起こしたのが在日外国人であるというデマにより多数の外国人虐殺が全国的に行われたという事件を想起します。危ないです。私たちは何が真実か、デマか、もう見分けがつかない、そんな時代を生きているのです。

背後霊の話から大分ずれてしまいました。とにかく世情不安な時代と心霊ブームは無関係ではないと思われ

ます。

タナトフォビア、死恐怖症とでも訳すのでしょうか、そんな言葉があることを最近知りました。「死にたい」という気持ちになることを、希死念慮ということを最近の研修で知ったのですが、死ぬことを極度に怖れることに対し、医学はその治療法がないそうです。不安を和らげることはできるので、たとえば抗うつ剤とか精神安定剤を施すことはできるのですが、死の恐怖を根本から取り除く方法はないのだそうです。

そうしたことに昔から答えを導き出してきたのが宗教ですが、死んだらどうなるかについて科学的に答えが出せない以上、宗教の答える内容も、基本的には信じられるかどうかにかかっており、死を怖れるすべての人に答えを与えることは難しいようです。

私たちは、いつか必ず死にます。死んだらどうなるか、わかりません。私たちは生きている以上、やりたいことをしようとします。夢を実現しようとします。でもそのすべてをやり遂げることなく、途中で人生を終わらなければならないのです。ところがそれほど深刻なことを、多くの人が、そのことを知りながら、普段はそんなことを考えもしないで毎日を生活しているのです。死を怖れる人が街に出たら、多くの人びとが歩いている。そんな人のほとんどが、自分は死ぬことを考えずに毎日をいきていることを思って愕然とするのです。まるで人は、自分の行く手に大きな落とし穴があるのに目を向けずに歩いている。その穴はどこに空いているのか、見えていないのです。それは今の、数分後、数時間後かもしれないのに、です。ですから中世の修道士たちは、互いの挨拶として「メメントモリ」(ラテン語であなたの死を覚えなさい)という言葉を挨拶の言葉にしていたといいます。

そんなこと考えると、死ぬのが怖いという人の気持ちが少しはわかってくるかもしれません。たとえばがんを患って、日本人の半分ががんで死にますから、医師から、あなたの命はあと数ヶ月ですと言われたら、私たちはどういう反応をするでしょう。多くは「今死んだら家族が…」とか「子どもたちがまだ小さいのに…」

とか、多くは死が自分たちにとって不都合なことであると考え、不条理な気持ちになります。私も10数年前心臓の発作で病院に担ぎ込まれたとき、自分も死ぬかと思ったので神様に祈ったのは、「今、命をとりさらないでください。子どもたちもまだ小さいので」でした。

1980年代によく読まれたキュープラー・ロスの「死ぬ瞬間」によると1,否認、2,怒り、3,取引、4,抑うつ、5,受容、の段階を経て人は死を受け容れていくそうです(死の受容の5段階)ロス教授はこの書物でいわゆる「臨死体験」についても色々な事例を紹介しています。いずれにせよ、死は我々には受け容れにくいものなのです。

私も、死が怖くないといえばウソです。クリスチャンでもです。で、その怖さというのは、直前の苦痛なのです。医師も、死の直前の苦痛はたとえようのないものであって、そのためにその死を和らげるための麻酔などのセデーションを施すのだそうです。私の父も母も既に亡くなっています。その最後の姿は、どちらも、大変苦しんでいるように見えました。特に看護師さんが時々痰をとりに来て下さるのですが、鼻から管を入れる、それがとても苦しそうで、自分のときは出来たらそんな痛くない痰のとり方ができていたらいいなと思ったものです。この春妻のお母さんが亡くなりましたが、あまり急で、入院したその日の夜に死んでしまいました。どれほど苦しんだかはわかりませんが、腹部の痛みの他、酸素吸入をしていましたから息苦しかったのだろうと思います。でも苦しんだ時間が長くなかったのは幸いだったのかもしれません。

でも、ある時このような考えが浮かびました。この夏教会に来た神学生が礼拝で話してくれたメッセージからですが、苦しんでいる父や母や、義理のお母さんのその側には必ずイエス様がいてくださったのだと。もちろんクリスチャンではありませんのでその人によってはひょっとしたら他のものに見えていたかもしれません。そう思った時、私は大きな慰めを得ることができました。今日の聖句です。私たちは産まれた時から神に背負われて歩んできた、これから死ぬまで私たちは神に背負われて生きるのだとしたら、そう信じるこ

とができるなら、私たちは死ぬことを怖れることはない。私たちは神への信頼に生きることができたら、その人生は必ず意味のあるものとなり、祝福の中で人生を終えることができる、そのことを心に覚えていていただきたいと願います。