10月27日 西林 佳夫さん
[2025-10-27]
【聖書】ヨハネ4:13〜14
13:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。14:しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
おはようございます。
宗教委員で大学総務課の西林です。皆さんの前でお話しする機会が与えられたことに感謝します。
朝の情報番組をみていると、今日は「~の日」と言って、いろんな記念日があることを紹介してくれますね。先週、10月15日は「世界手洗いの日」でした。これは、ユニセフが公衆衛生の考え方を全世界に普及し、熱帯病の感染を予防するために2008年に定めたものです。手洗いに欠かせないものといえば、きれいな水。
我々が住む熊本は、ご存じのとおり、日本でも珍しいほどに水に恵まれた土地だといわれます。生活用水のほとんどを阿蘇や九重からの地下水で賄うことができるうえに水質もよく、ミネラルウォーターでお風呂に入っているのと一緒だというと、他県の人にうらやましがられるといった経験をした人もいるかもしれません。一方で、近年では豪雨が頻繁に発生し多くの災害に見舞われるほどで今後の気候変動の行方が気になります。
そんな、私たちの生活に欠かせない水。
世界を見渡すと、生活に必要な水を得るのに大変な努力、労力を要する地域が少なくありません。例えばアフリカ。比較的経済的に発展しているとされているケニアも例外ではありません。今日は、10年ほど前にケニアで経験したことを皆さんと分かち合いたいと思います。
当時私は、保健系の大学で仕事をしていて、発展途上国での水資源の確保について研究している教員に同行して現地の視察をする機会がありました。
最初に宿泊した、首都ナイロビのホテルのシャワーの水の流れはとても弱く、使用量を少なくする努力が分かります。
さらに過酷なのは、内陸の地域です。水を得るためには井戸や泉まで水を汲みに行かなければなりません。平均で往復4Kmの険しい道のりを何時間もかけて往復します。多くの場合、水汲みは女性やこどもの仕事です。水汲みが終わって学校に行ける子供は恵まれている方でした。

これだけの労力をかけて得られた水も、濁っていたり、ウイルスや雑菌に侵されていたりと、決してきれいなものではありません。部族の村では、雑貨店に「水をきれいにする石」というものが売ってありますが、濁りを取るだけで、菌やウイルスを取り除くことはできないとのことです。
また、内陸部にはヴィクトリア湖というタンザニアと国境を接する大きな湖がありますが、水は濁りが強く、水質が悪いことからにおいが発生していました。
湖畔の住民は濁った水に網を仕掛け、魚を取り生計を立てています。
私たちは、日本の研究者が開発した水を簡易的に浄化するシステムの導入の可能性と、住民に対して仕組みを説明し意見を聞きました。
住民が口をそろえて言うのは、お金を出してまで水を買うことはない、買えるわけがないという厳しい言葉でした。電気も通っていない土壁の家に住んでいる人にとって、とても賄える金額ではないのは明白でした。
改めて、我々は水だけでなく経済的にも発展した国で生活しています。しかし、全世界的にみるとそれは当たり前ではありません。できることなら私たちが当たり前に使っているようなきれいな水を提供したい。しかし、そのことでそのほかの生活のバランスが崩れてしまっては本末転倒です。ケニアの人たちに寄り添った支援とはどういうものなのか、単なる押しつけになってはいないかと自問自答しました。
さて、日本から来た我々からみた過酷な環境にあっても、こどもたちは幸せそうに笑って遊んでいました。驚きを禁じえませんでした。
その光景を目の当たりにして思い浮かんだのが、今日読んでもらった聖書の箇所です。
「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
神様は私たちに、飲めば乾く物理的な水だけでなく、いかなる状況にあっても乾くことのない、内面から潤す水を与えてくださるのだと実感しました。そして、この出張で1週間会えなかった、遠く日本で帰りを待っている2歳になったばかりの息子のことを考えて涙したことを思い出しました。
短く祈ります。
神さま。あなたのもとこの学院に集められたことに感謝いたします。私たちは様々な困難にある人を目の当たりにすると憐みの感情を抱きます。気持ちがあっても様々に理由をつけ目をそらしてしまうこともあります。それでも、あなたから与えられる命の水のように、相手を思い助け合いながら日々を過ごしていけるよう導いてください。
この小さな祈りを、主イエスキリストを通じてみ前にお捧げいたします。
アーメン。