12月17日 野口 和音 中・高チャプレン
[2025-12-17]
新約 コリントの信徒への手紙一 1:9
神は真実な方です。この神のよって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
「みんなのカテキズム」という本があります。1997年にアメリカで出版され、日本の教会でも取り入れられた本で、キリスト教の教えを簡単に教えるために、一問一答の形をとっている整理問答の本です。
子どもから大人まで対象としたこの教理問答のはじめに、一つの問いがあげられています。それは、「あなたは誰ですか」という問いです。
皆さんは「あなたは誰ですか、どんな人ですか」と問われて、何と答えるでしょうか。そう問われると、「わたしは何者なのか」を一言で答えるのは難しいものだなと思います。
自分は何者になりたいのかを考えることは大事なことです。しかし何者にもなれていない状態、その過程においては、「自分は何者なのか」を捉えるのは難しいかもしれません。
また、こうなりたいと思って頑張っていても、理想や夢が破れてしまって、その道が閉ざされてしまったら、自分の存在価値さえ見失ってしまうことがあるかもしれません。
もしその何者かに第一人者になれたとしても、それはいつか揺らぐものです。スポーツなら引退しなければならないし、研究の第一人者なんて常に移り変わります。どんなに高い地位も権力も、いずれは誰かに引き継がなければならない時が来る。
じゃあ、ずっと揺らぐことも変わることもない「あなた自身」を言い表す言葉って、どういうものなんでしょうか。
この数理問答書は、そのような難しい問い、「あなたは誰ですか」という質問に、すべての人に共通する、とても簡単な答えを教えてくれています。
それは、「わたしは、神様の子どもです」という答えです。
「わたしは神様の子どもです」という答えは、神様があなたをそう見てくださる、ということです。
あなたがたとえ、地位も、権力も、才能も見つけられないような自分で自分の価値を見出せないような状態にあったとしても、それでも神様はあなたを自分の子どものように愛してくださっている、ということです。
その愛は、神様ご自身であるイエス・キリストが来られたことによって示されたと聖書は語るのです。
ある映画の中で、父親である主人公が神様に尋ねるシーンを思い起こします。主人公は、なぜイエスが十字架にかかって死んだことが、神の愛を示していることなのか理解できない、というのです。
すると神様は主人公にこう問うのです。「あなたの愛する子どもが、もし病で苦しんでいるとしよう。なにか悪いことをして、鞭うたれているとしよう。あなたはその子にどうしてあげたいと思うだろうか」
すると父親は「自分が代わりに苦しむから、子どもを苦しめないでほしいと願う」そう答えていきます。
すると神様はこう返すのです。「あなたが願う、それこそが十字架の愛なのだよ。人は皆、誰であれ私の愛する子どもなのだ。だから、罪によってあなたたちが苦しむのをこれ以上見てはいられなかったのだ」と。
神様が私たちを見つめている目、愛に溢れたそのまなざしは、イエス・キリストの生涯の初めから最後まで現わされているのです。
あなたは神様の子どもなのだよ、それは誰の力によっても揺らぐことのない、神様ご自身が決められたことなのだということを、あなたに伝えるために、イエスは私たちと同じ人間として、神様の子どもとして、クリスマスのあの日に生まれてきてくださったのです。
あなたは何者ですか、と問われた時「わたしは神様の子どもです」という答えを皆さんも心に留めておいてほしいと思います。
何者かになれたとしても、何者かになれなかったとしても、揺らぐことも変わることもないあなたという存在の土台はここにあります。
あなたは神様の子ども。あなたの隣に生きている人も神様の子ども。
等しく愛され、恵まれて生きていってほしいと皆さん一人一人に願っておられる神様の心が、ここにあることを、忘れずに過ごしていってほしいと思います。
祈りましょう。
天の父なる神様。
わたしたちをあなたの子どものしてくださり、ありがとうございます。私たちの存在を揺らぐことのない形で支え、あなたに愛されていることをいつも思い出させてくださいますように。
神は真実な方です。この神のよって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
「みんなのカテキズム」という本があります。1997年にアメリカで出版され、日本の教会でも取り入れられた本で、キリスト教の教えを簡単に教えるために、一問一答の形をとっている整理問答の本です。
子どもから大人まで対象としたこの教理問答のはじめに、一つの問いがあげられています。それは、「あなたは誰ですか」という問いです。
皆さんは「あなたは誰ですか、どんな人ですか」と問われて、何と答えるでしょうか。そう問われると、「わたしは何者なのか」を一言で答えるのは難しいものだなと思います。
自分は何者になりたいのかを考えることは大事なことです。しかし何者にもなれていない状態、その過程においては、「自分は何者なのか」を捉えるのは難しいかもしれません。
また、こうなりたいと思って頑張っていても、理想や夢が破れてしまって、その道が閉ざされてしまったら、自分の存在価値さえ見失ってしまうことがあるかもしれません。
もしその何者かに第一人者になれたとしても、それはいつか揺らぐものです。スポーツなら引退しなければならないし、研究の第一人者なんて常に移り変わります。どんなに高い地位も権力も、いずれは誰かに引き継がなければならない時が来る。
じゃあ、ずっと揺らぐことも変わることもない「あなた自身」を言い表す言葉って、どういうものなんでしょうか。
この数理問答書は、そのような難しい問い、「あなたは誰ですか」という質問に、すべての人に共通する、とても簡単な答えを教えてくれています。
それは、「わたしは、神様の子どもです」という答えです。
「わたしは神様の子どもです」という答えは、神様があなたをそう見てくださる、ということです。
あなたがたとえ、地位も、権力も、才能も見つけられないような自分で自分の価値を見出せないような状態にあったとしても、それでも神様はあなたを自分の子どものように愛してくださっている、ということです。
その愛は、神様ご自身であるイエス・キリストが来られたことによって示されたと聖書は語るのです。
ある映画の中で、父親である主人公が神様に尋ねるシーンを思い起こします。主人公は、なぜイエスが十字架にかかって死んだことが、神の愛を示していることなのか理解できない、というのです。
すると神様は主人公にこう問うのです。「あなたの愛する子どもが、もし病で苦しんでいるとしよう。なにか悪いことをして、鞭うたれているとしよう。あなたはその子にどうしてあげたいと思うだろうか」
すると父親は「自分が代わりに苦しむから、子どもを苦しめないでほしいと願う」そう答えていきます。
すると神様はこう返すのです。「あなたが願う、それこそが十字架の愛なのだよ。人は皆、誰であれ私の愛する子どもなのだ。だから、罪によってあなたたちが苦しむのをこれ以上見てはいられなかったのだ」と。
神様が私たちを見つめている目、愛に溢れたそのまなざしは、イエス・キリストの生涯の初めから最後まで現わされているのです。
あなたは神様の子どもなのだよ、それは誰の力によっても揺らぐことのない、神様ご自身が決められたことなのだということを、あなたに伝えるために、イエスは私たちと同じ人間として、神様の子どもとして、クリスマスのあの日に生まれてきてくださったのです。
あなたは何者ですか、と問われた時「わたしは神様の子どもです」という答えを皆さんも心に留めておいてほしいと思います。
何者かになれたとしても、何者かになれなかったとしても、揺らぐことも変わることもないあなたという存在の土台はここにあります。
あなたは神様の子ども。あなたの隣に生きている人も神様の子ども。
等しく愛され、恵まれて生きていってほしいと皆さん一人一人に願っておられる神様の心が、ここにあることを、忘れずに過ごしていってほしいと思います。
祈りましょう。
天の父なる神様。
わたしたちをあなたの子どものしてくださり、ありがとうございます。私たちの存在を揺らぐことのない形で支え、あなたに愛されていることをいつも思い出させてくださいますように。